カテゴリ: 短編小説のようなもの

NN.4-1からの続き)


 事の発端は3日前――作戦名が『砂漠の裁き』に決まる前日のことだった。
 新校舎にある5年生の教室の周りには、4時になるとほとんど人がいなくなる。職員室も体育館も音楽室も旧校舎にあるので、何か目的があって残るようなまともな人たちはみんなそっちに行ってしまうのだ。
 その日もいつものように5年2組の面々は授業が終わってから火の鳥やらはだしのゲンやらを読んで時間をつぶし、4時を過ぎたころに教室に戻って遊戯王カードで遊んでいた。最初はもっと多かったのだけど、塾やら習い事やらで少しずつ抜けていき、その時間まで残っていたのは3人だけになっていた。
 教室に響くのは校庭から響いている野球の音、開け放たれた音楽室の窓から聞こえるピアノの音、カードを繰る音、そしてラジオの音だった。よく晴れていて、窓からの風はゆっくりと教室の中を吹き抜けていった。その時間にいつも流れる、洋楽も邦楽も入り混じったゆっくりした音楽番組を3人は気に入っていたけれど、3人が本当に好きなのはその後の番組だった。
 Red hot chili peppersの曲がフェイドアウトしていったタイミングで、
『ピエールYAZAWAの、ジュテーム☆ニッポン!』
 激しく胡散臭いBGMに乗って聞きなれた声が聞こえる。来た。3人は携帯アプリのFMラジオにくっつくようにして続きを聞く。
「はーいこんにちは。YAZAWAだよ皆さん今日も頑張ってるかい? お疲れさま。YAZAWAはこれから局を飛び出して横浜元町のカフェに行くんだ。お天気キャスターのジュンちゃんに一緒に行かないかと誘ったが断られちまった。お天気はいつ変わるか分からないものな。だから仕方ない。YAZAWAのせいじゃない。ジュンちゃんのせいでもない。だからまた誘うよ。そんなわけでひとりで行くことになっちまったけどいいんだ。YAZAWAはモンブランとチェリーパイとプリンアラモードを食べてくる。スイーツのことと今日の野球の結果とジュンちゃんとリエちゃんとアンナちゃんのことを考えながら、思い出したらみんなのことを応援するよ。できるだけ。そんなYAZAWAの番組だけど、みんな聞いてくれよな。今日のスペシャルコーナーを発表するよ。今日は今や恒例、『のど自慢』をやってもらうよ。うまい歌・魂のこもったシャウト・これを機に歌手デビューしてやろうなんていう悪だくみ、なんでもどんと来たれだ。今日はメールもFAXも受け付けないよ。すべて電話だ。YAZAWAと電話オペレーターのお姉ちゃんたちがしばらく歌なんて懲り懲りだって思うくらいにガンガン歌いまくってくれ。よろしくな。今から受け付け開始だ。今日勝ち抜いたら来週のVIPのど自慢に電話出場して他の誰かとガチンコ対決できる権利もあげるぜ。番組自体は6時からスタートするからそちらも聞き逃さないでくれよな。それでは1時間後にまた。stay tuned」
 このDJのすごいところは、十五秒の番宣の尺でこれだけを言い切るところだ。あまりにもすごすぎてタカシたちは何度も真似をしようとしたけれど、結局うまくいったことはなかった。
「のど自慢だってよ、何歌う?」
「アクエリオンかなぁ」聞いたタカシに、ユキオが言う。いつもは電話かメールでのネタ投稿をしている三人だったが、普段とは毛色の違うプログラムに少し戸惑っている。
「そんなんじゃダメだろ、いくら何でも。格ってものがあるんだよ。最低でも洋楽だ。そういう奴じゃないと勝てない」とカズヒサが言う。
「俺は……どうしようかな……とりあえず電話だ電話、ユキオ、まずお前がやれ、俺の携帯は今ラジオ使ってるから使えないし」タカシはユキオをびしっと指さした。
「そんなこと言ってもなぁ……洋楽知らないし」と言いながらも、ユキオはタカシとカズヒサの鋭い視線を見ると、弱々しく首を縦に振る。「じゃあやっぱりアクエリオンで」
 もう登録済みの電話番号に向けてユキオが電話をかけて、「はい、ユキオといいます」と弱々しく電話口に向かって話し、そのまま弱々しく歌い始めるのを二人は見ていた。それにしてもひどい歌だった。滑舌は悪いし息は途中で切れてふうふう言っていた。
「終わったよ」汗にまみれたユキオが憔悴しきったような声を出した。「オペレーターのお姉さんが、『勝ち抜いた場合には後ほどお電話します』って言ってた」
「あんなんで勝ち抜けるわけねーだろ」タカシはため息をつく。「携帯貸せ。今度は俺がいく」
「タカシは何を歌うんだ?」カズヒサが問う。「FMとは言っても、所詮人間界のくだらない電波。俺たちがそんなものに嘗められたら恥さらしだぞ」
「マイケルジャクソンを歌うよ。」
「すごい。洋楽歌えるの?」ユキオが問う。
「あぁ。最近心を動かされた曲だ」ユーチューブで遊戯王の動画を漁っていたときに、間違えてクリックしてしまった動画だった。でもPVが面白かったので何度も見ていた。
「なるほど。まぁFMごときにはちょうどいい選曲だな」満足そうに言うカズヒサにタカシは頷き、履歴を探し出して電話をかける。つながるまでのトゥルルルルでだんだん緊張が高まっていく。
 ガチャッ、と電話を取る音がして、「こんにちはYAZAWAだよー。のど自慢の応募者かい?」
「え、あ、はい。歌いたいです」まさかのYAZAWA本人にかかってしまった。
「そうか、よーし頑張れ。YAZAWAは抜け出そうと思ったらディレクターに止められちまったよ。おれもしがないサラリーマンだからね。上の人の言うことにはどうやっても逆らえないのさ」
「……はぁ。そうですか」あまりの緊張で、YAZAWAの声はほとんど耳に入ってこなかった。
「君は何を歌うんだい?」
「マイケルジャクソンのスリラーを歌います」
「いいねぇスリラー。さっきから僕にかかってきたやつは軍歌、ブラックミュージック、へヴィメタだったよ。いたずらなんだろうね。へヴィメタなんてアカペラで聞いても何が何だかわかりゃしない――それじゃ、準備はいいかい?いいならば後悔のないように心置きなく歌ってくれ。」
「はい。」とタカシは返答した。ふう、と息をひとつ吐いてから歌いだす。「いつくろうずざみーなぁぃ、さむしんいんぼざふぁってんいんこざとーふ……」
 歌っている間は体が軽かった。ムーンウォークで隣町まで歩いて行けそうな気がしていた。隣のユキオがバブルス君にさえ見え始める。英語はやはり、音楽に良く合う。
「いいねぇ君、実にいいよ」歌い終わるとYAZAWAが大声で笑った。「ムーンウォークでアメリカまで歩いて行けそうな気分だ。笑いは世界を美しくするね。イヤな気分が吹き飛んだ。」
「そうですか。それは良かった。」
「君は勝ちぬき決定だ。」
 YAZAWAの声に、思わず身を固くする。「本当ですか?」
「あぁ。今日遅くに会議して決めなきゃいけないんだが、僕が熱烈に推しておくよ。君の対戦相手はそこで決まる。多分明日か明後日くらいにはオペレーターのお姉ちゃんから確認の電話がいくと思う。僕はもう一度君の歌が聞きたい。笑いたい。だから7月23日の午後8時、予定を開けておいてくれよ。あと、全員分はカラオケを用意できないから、各自でカラオケの音源は準備しておくこと。オーケーかい?――じゃあまた。これから君の対戦相手たちの歌を聞かなきゃいけないから」
 そして電話は切れた。
 タカシは熱に浮かされたように呟いた。「勝ち抜きが決まった。7月23日だって」
「えっ?本当に?すごい」ユキオが騒ぎ始めるが、カズヒサは腕を組んで考え込んでしまった。
「まずはおめでとう。タカシならば簡単にクリアできると思っていた。――しかしよく考えてみろ。7月23日は校内キャンプの日だ。我々はずっと拘束され続けてしまう」
「あ……本当だ――どうしよう、せっかく勝ち抜いたのに」呆然とするタカシに、カズヒサは力強く頷いた。
「いや、出られないと決まったわけじゃない。」カズヒサの目が強く光った。「所詮校内キャンプなんて愚民どものおままごとに過ぎん。崇高な目的があるならば、我々はそれを排除することも辞さない」
 そのようにして、「砂漠の裁き」作戦は萌芽を見せた。
 なお、カズヒサはその後、番組に電話をかけ、デスメタルで勝負していた。結果は伝えられなかった。




 陽が落ちきって少しずつ冷え始めたからなのか、誰もがキャンプファイアーの周りに集まっている。高く積み上げられた薪の爆ぜる音が周囲の楽しげな笑い声やざわめきを通り抜ける。タカシは大皿のカレーにぱくつきながらカズヒサやユキオと一緒にマガジンとジャンプの話をしていた。しかしこれは周囲を忍ぶ仮の姿であって、本当は周囲の様子に神経を尖らせながら刻一刻と迫ってくる作戦開始時刻に備えていたのだ。ルフィと手塚部長が戦ったらどちらが勝つかなどという話をしながら、じつは周囲に絶え間なく目を配っていたのだ。そうは見えなかったのならば心眼でみていたのだ。
 校舎の大時計を一瞥すると、作戦「砂漠の裁き」の行程と概要をカズヒサが再確認する。
「カレーを食い終わったらすぐにフォークダンスが始まる。ここで我々は離脱。フォークダンス開始後、無人となった目標、放送室を制圧する」プログラムを前にし、カズヒサが語る。「――そして、日本全国を支配するカオスソルジャーのスリラーを全校放送マイクで学校中に流す。平和に塗れて踊っていた愚民どもの世界は混沌に包まれる」
「放送室ではフォークダンスの音楽流すんでしょ? 誰かいるんじゃないの?」不安そうな面持ちでユキオが尋ねる。
「これを見てくれ」カズヒサが一枚の紙切れを出す。「敵の本部、職員室に侵入して機密情報を手に入れたんだ」
それは教師向けに作成された校内キャンプの分担表だった。
「ちょ……よくこんなもん手に入れられたな」タカシが驚いた声を出す。「しかもこれ谷山のじゃねーか」
 蛍光ペンで谷山の名前のところにだけ線が引いてある。フォークダンス放送室担当、肝試し旧校舎2階担当、ラジオ体操担当、2日目特別活動の3時間目担当。谷山が担当する肝試し……血に餓えた熊が放された檻の中へ突入することを、本当に肝試しと言ってよいのだろうか? それはただの自殺志願者ではないだろうか。
「これを見ると、谷山はフォークダンスの放送室担当になってる」カズヒサはユキオに言い聞かせるように言う。「でも奴は俺と踊ることになってるんだ。多分あいつは油断してる。音楽をかけ始めたら戻ってきて踊るつもりだ。その間、目標はがら空き」
「でも……それならカズヒサがいないって探しに来られて尚更見つかるじゃないか」タカシが異議を唱えると、
「見つからなければいい」カズヒサはきっぱりと宣言する。「敵地の真ん中で敵に見つかる兵士は、よっぽどの不運か初心者だ」
「なるほど」頷いたタカシの目に、まだ皿の半分も食べ終わっていないユキオの姿が映る。「緊張してるのか。まぁ、気持ちは分からないでもないが……しかし食わないといざという時に力が出んぞ」
 ユキオは弱々しく頷く。そしてカレーをゆっくりと口にはこぶ。
 夜はいよいよ深まって、そこらじゅうを支配していた蝉の鳴き声はゆっくりとヒグラシの鳴き声に変わっていく。校庭を照らす明かりが全て灯って、そこに集まる人間の影は長く長く伸びる。風景は闇に溶けていき、校庭の一部分だけがぽっかりと開いた光の穴のようだった。「闇が世界を覆う」カズヒサがそう言ったが、それは特に作戦とは関係なかった。
 割れた拡声器で教師の声がする。フォークダンスが始まるとのことだった。ユキオが校舎のてっぺんの大きな時計を確認すると、19時50分だった。
「そろそろだ」カズヒサはタカシに目くばせをして頷く。二人は校舎脇の花壇に植わったもみの木の陰に隠れて、生徒たちがゆっくりと校庭の中央、朝礼台の前に集まって行くのを見ている。
「……ユキオが来ない」トイレに行くと言い残し二人と別れたユキオがまだ来ない。タカシはじりじりする思いだった。
「ダンディライオンも誇り高い兵士の端くれ、まさか敵前逃亡するような真似はするわけないだろう」
 カズヒサはそう言ったが、タカシはそんなこと聞いてはいなかった。あいつには逃亡する明確な理由がある。じっと目を凝らしてその姿を探す。キャンプファイアーのせいで逆光になって誰が誰だかよく見えなかったけれど、その姿はほどなくして見つかる。見慣れた後姿。「戸田さん……」探していたのはユキオではなくて戸田さんの姿だった。暗闇の中でもわずかな光を探し出し、集めて弾くような白い肌と、ふわふわの髪の毛と。見ればすぐにわかる。そして、その隣に当然のように立っているユキオ。戸田さんと何か話している。そして戸田さんは時々にっこりと笑う。ユキオは周りをちらちらと気にしながら、話をやめる気配はまるでない。
「ユキオ、あいつ……」
 指差すタカシのその先を見て気付いたカズヒサも苦りきった顔をしている。「まさか敵前で逃げ出すとは……もう少し骨のある奴だと思ったのだが……やはり軍法会議にかけざるをえまい」
 ゆっくりと輪が広がっていく。ユキオと戸田さんは暗闇の中で手をつなぐ。
「あいつ、やっぱり許さん」飛び出ようとするタカシを、カズヒサが木陰に引き戻す。
「誇りを失った兵士への怒り、分かる、気持ちは痛いほど分かるぞ。しかし、今我々まで感情に任せて走ったらどうなる? 作戦は水泡に帰してしまう。それが誇り高い兵士のやることなのか? せめて我々だけは、粛々と目的を遂行しなければならないんだ。だから――」
 カズヒサの熱い言葉を割るように、アコーディオンの場違いに優しい音楽が響き渡る。オクラホマミキサーだった。ゆっくりとフォークダンスは始まっている。
「始まったか……行くぞ」
 カズヒサは木陰に隠れるように中腰で玄関のほうに向かう。タカシは、いろいろと納得できない部分はあるにしても黙ってそれに着いていく。もはや逃げることは許されない。


NN.4-3へ続く)


「ということで、決行する」タカシは椅子に敷いたクッション代わりの防災頭巾を蹴っ飛ばして立ち上がる。目の前に座った二人をびしっと指さす。無人の教室に声が響き渡る。「午後8時」
「本当にやるの?」不安そうな声を上げるユキオにタカシは指をそのままびしっと差して、
「もう決まったことなんだよ。7月の……24日だっけ」
「違う、やるのは23日。一般には革命記念日とされている日だ」
 カズヒサが訂正する。
「そう、それだ。7月23日の午後8時。」
「作戦名はどうする?」カズヒサが身を乗り出すと、
「作戦名?」ユキオはさっきからずっと不安そうな声。
「秘密作戦なんだからコードネームは必要だろ。どこにスパイが紛れ込んでるか分かったもんじゃない」
 確かにあったほうがかっこいい。タカシは指をそのままカズヒサに向ける。「そう。忘れるところだった。偉いぞカズヒサ」
 カズヒサはゆっくりと頷く。「例えば――『砂漠の裁き』」
「『イタクァの暴風』」タカシも考えを口にする。
「『黒き森のウィッチ』」同様にカズヒサが呼応する。
「『グラヴィティ・バインド―超重力の網』ユキオも何か考えろよ」タカシはユキオを睨む。
「えーっと……『冥王竜ヴァンダルギオン』」
「ただの遊戯王カードじゃねーか!」思わずぶち切れるタカシに、「二人のやつも同じじゃん……」とユキオは弱々しく抗議する。
 そんなふうにして作戦名は『砂漠の裁き』に決まった。
「あとはあれだ。さっきみたいにカズヒサって呼ぶのもやめにしないか?」窓枠に座って腕を組みながら、カズヒサが喋る。「秘密作戦なんだから。盗聴されていたらどうするんだ?」
「確かに通称が必要だ」タカシはカズヒサをきっと見据える。「オレが決める。リーダーなんだから。じゃあカズヒサは……コードネーム、カオスソルジャー」
「キラースネークのほうがいい、なんといっても砂漠だし」
「じゃあそれで」流されるの早っ!と呟くユキオのほうを敢えて見ないようにして「カオスソルジャーの名前はおれがもらうことにする。ユキオは……ダンディライオンでいいや」
「弱っ!」
「いいだろ、一応制限カードなんだから。それにコードネームなんていうのは世間を欺くためのただの記号に過ぎん」カズヒサが口をはさむ。「これですべて決まったな」
「よし、みんな。苦労をかけると思うけど頑張って着いてきてほしい」タカシはそこで息を吸いこんで、
「7月23日の午後8時、作戦コード砂漠の裁きを実行に移す。現時刻をもって第一種戦闘態勢に入る、口外したやつはスパイとして軍法会議だ。」
 分かったな、ユキオ? 今のおまえはもうユキオじゃなくてダンディライオンなんだぞ、と目で聞いてくるタカシにユキオはゆっくり頷く。何よりも軍法会議という響きが怖すぎる。
 夕日に染まり始めた教室の中で、ひとつの極秘作戦の挙行が決定した。窓から吹き抜ける風は熱気を少しずつ教室から奪っていき、黒板上に設置された時計の秒針が立てるカチカチという音が聞こえ始める。ようやく仕事が一つ片付いた、という思いと、もうこんな時間なのに夕焼けか、随分早くなったな、という二つの思いを胸に抱いて赤く染まり行く窓の外をタカシが眺めていると、
 突然、静寂を破るように教室のドアが開いた。
「おぉ前らぁ、こぉんなところでなにをやっとるぅ、早く帰らんかあぁ」
 と、5年の担任代表の谷山が入ってくる。まるで巨大な山だ。動くたびに世界が揺れる。毎日着ている茶色のジャージは熊から剥ぎ取った皮で作られているらしい。
 突然の敵来襲に一瞬だけビクゥッ!となりながらも、なんとかタカシは冷静な声を出す。
「こんなところに長居は無用だ、帰ろう」
グォォォォと唸り声を上げる谷山の視線をやり過ごすように、後ろの出口からこそこそと帰る。ちらりと後ろを振り返ると、谷山は大きな手をボキボキと鳴らしていた。「次にこうなるのはお前の首だ」と言っているように見えた。

 



 教室はさっきからざわめいている。そこらじゅうで声が上がっている。しかしタカシにはそんなものはまったく問題にならなかったし聞こえてもいなかった。熾り火が薪の下でゆっくりと、しかし確実に酸素を燃やしながら成長していくのにも似たタカシのエネルギーのざわめきに比べれば。
 勝負どころはここなんだ、とタカシは考える。一瞬の勝負。たったそれだけで運命が決まる。指先にすべてを賭ける。自分の存在それ自体を。自分ならできる、間違いない。そしてタカシはゆっくりと歩いていく。目の前の黒板を見据える。校内キャンプ・フォークダンスのペアくじ引き決定戦、と書いてある。
 タカシが願うことはただ一つ。
 17番。
 そう。17番さえ引くことができればいいんだ。できる。ここにかけるエネルギーのため、ただそれだけのために給食のジョアを三本もおかわりしたんだ。そもそもそれはジョア争奪19人じゃんけんで3連勝をした偉業の対価なんだ。これは流れが来ている。自分に流れが来ている。だから引けるに違いない。
 タカシは黒板の前に置かれた鳩サブレーの箱に手を入れた。そこでふと思いついた。
 そう。何も頼るのは運ばかりじゃない。ストレートにいくだけじゃない、頭を使ったやつが最後には勝つんだ。
 中を覗けないだろうか? 鳩サブレーの箱をぐるぐる見回してみる。ご丁寧に目張りまでしてある。誰が作ったんだこんなの。そして箱に描かれた鳩と目が合う。赤く書かれた鳩の目と見つめあう形になる。何かいい案はないだろうか? そう問いかけてみるけれど、もちろん何も答えてはくれない。
 クルッポー。まるで自分が鳩になったように、鳴き声がタカシの頭を占拠して気分が悪くなっただけだった。
 じゃあ見張り役の隙をついて17番を強奪できないかとちらりと伺う。今度は目の前に立った見張り役のイガワと目が合う。胸の前で手を厳重に組んで仁王立ちしている。でかい。この年で既に身長は2メートルを突破したと聞いた。怖い。完全体になったらどのくらいになるのか。膝丈のスカートはストライプで、鬼の腰巻きも随分現代的にアレンジされたものだと感心した。金棒を持っていないのが不思議なくらいだ。
「何やってんの? あたしは気が短いから、早く取らないとぶったたくよ」その声で教室のざわめきが静まった。
 多分、イガワが素手であるのは、金棒なんてなくても負けることなんてないという自信の表れなのだ。
「……分かったよ」
 いらない邪魔が入ってしまったが仕方ない。こうなったら自分の力だけで引けばいいんだ。それくらいできる。
 ちらりと黒板を見る。先にくじを引き終わった女子のほうはすべて埋まっているが、男子のほうはまだほとんど埋まっていない。もちろん17番も開いたままだ。今度は17番の相手――すなわち自分の相手になるであろう戸田さんのほうを見る。午後のけだるい陽光の中で、白くてふわふわしたその姿は旧い宗教画のようで、別の言い方をするならば午後の日差しそのものだった。周りの友達と笑いながら話しているその姿を見ただけで特別な力を受け取ったようにも感じたし、この勝負には負けられないという決意も新たにした。
 再び指に自分の全存在を賭ける。そしてがさがさと中の紙をかき分けていく。
 どれだ。
 そしてある瞬間、指に特別な電流が走った。
 間違いない、これだ。
 それは他の紙と何ら変わるものではないように他のやつらには感じられるだろう。しかし俺には分かる。これしかない。運命を宿している。この紙が。取ってくれとタカシに語りかけている。それは離れ離れになっても永遠に引き合う磁石の両極のよう。
 運命を切り開くべきその紙を、思いっきり引きぬいた。
 その紙は2番だった。
「2番かよ!」と悲痛な叫びを上げたのはタカシではない。タカシも同じように叫びだしたかったのだけど、イガワの大きな叫びにかき消されてしまったのだ。タカシは叫ぼうとしたはずが逆に耳を塞いでいた。耳だけではない、身体がばらばらになるような音だ。音波兵器。それは巨大な音を出すことで対象物を破壊する兵器の総称だ。まさかこんなところで実用化されていたなんて。
 カツカツと大きな音を立てて自分の名前が2番のところに書きこまれていく。違うんだこれはただの目の錯覚なんだ蜃気楼なんだもしくは集団催眠なんだ、と何度も確認しようとしたけれど、やはりどう17番に見ようとしてもそれは2番だった。そもそも数字が完全に一桁だった。魔法で幻覚を見せられているのか。
「タカシ、あんたあたしと踊るんだからね、ちゃんとやってくれないとマジで怒るから」そのイガワの声にはっと黒板を見上げる。チョークでカツカツカツと叩いている2番、自分の名前の隣には、一番あってはいけない名前があった。
「お前かよ!」
「それはこっちのセリフ。あんたいつも真面目にやらないんだからたまにはちゃんとやりなさいよ、やらないと私まで怒られるんだから、少しはその辺を分かりなさいよ、だいたいあんたこの前だって――おいちょっと待ちなさいこら」
 上から声が降ってくる。
 もうだめだ完全に終わった。なんでフォークダンスの相手がイガワなんだ。
 教室のざわめきはタカシにはまったく聞こえなかった。先ほどとは違う意味で。
 ふらふらと机まで戻って腰を下ろす。じりじりと午後の太陽を浴びて、机も椅子も熱い。焼かれそうだ。
「どうしたカオスソルジャー、お前らしくもない」すぐにカズヒサが声をかけてきた。
「何で俺がイガワとフォークダンス踊らなきゃいけないんだよ、俺は猛獣使いか」最後は半ば黒板のほうへ吐き捨てるように。黒板の前に立つイガワが黒板消しでも投げてくるんじゃないかと左手に算数の教科書をスタンバイしておいたけれど、くじ引きの対処に忙しくてそれどころではなさそうだった。もはやタカシのほうを見てもいない。
 どちらかというと拍子抜けしたタカシは、「お前は誰と組むことになったんだ?」とカズヒサに尋ねる。
「知らない、くじも引いてない」カズヒサは首を横に振る。「引く気もない」
「いいのかよ、イガワがぶち切れて暴れだしても助けないからな」
「お前、忘れたのか?」カズヒサはさらに首をぶんぶんと振りながら机の中を探る。「俺たちの役目は社会に溺れることじゃない、ましてやフォークダンスを踊ることでもない」
 ごそごそとさらに机の中を漁る。あれ、あれ、と呟きながら。いくつかのプリントやテストなんかを引っ張り出し続けて、「あぁ、あった」
 くしゃくしゃに折り目がついたその紙は、校内キャンプのプログラムだった。「これ、ちゃんと見たか?」
「全然見てない」タカシは思い返してみるけれど、どこへしまったのかも分からない。机の中をものすごく探せば出てくるかもしれない。
「消灯時間早すぎるだろ、なんだよ十一時って」プログラムをぱらぱらとめくってタカシが言う。
「そうじゃない、重要なのはここだ」カズヒサが指さしたのは20:00の文字。「フォークダンスは8時からだ」
 タカシの頭の中に電流が走った。午後8時! 作戦決行時刻と同じじゃないか。
「だから俺たちは踊らない」カズヒサは決然と言い切る。
 ゆっくりと頷きながら、タカシは正直なところ迷っていた。イガワの放った強烈なローキックが膝を打ち、熊さえ絞め殺すといわれるその握力が襟元を襲っている図が容易に想像できたからだ。しかし、あるいはそれはフォークダンスを踊っている姿なのかもしれない。どうするのがいちばんいいのか。むしろ安全なのか。なんかもうよくわからなかった。
「17番ね、オッケー」
 ――17番来やがった!
 17番という言葉がタカシの脳を揺り動かした。タカシが光の速さで黒板を見ると、
 そこには嬉しそうに頭をぽりぽりかいているユキオの姿が!
「ユキオくん私とやることになったのねー。うまく踊れるかわからないけどがんばろー」
 17番の相手は――戸田さんは、窓際の席からユキオに手なんか振ってしまっている。
 違う。本来戸田さんが手を振るべきだったのは俺だったんだ、断じてユキオではない。
「うん、がんばろー」ユキオもにやけて手なんか振っている。
 何ががんばろーだその17番は本来俺のものになる予定だったんだ、どうしよう奪い取るか、でももう黒板に書かれてるし書いたやつはイガワだし、
「なんとしても『砂漠の裁き』を成功させなきゃいけないな、キラースネーク」
 タカシは作戦の成功を心に深く誓った。カズヒサはゆっくりと頷いた。
 一方、カズヒサがくじを引くことはなかったが、男子の数がひとり多いために谷山の相手に指名されていた。


NN.4-2へ続く)

 図書委員の仕事なんて、別に楽しいものじゃない。カウンターに座っているだけだから図書室に置いてあるマンガ読み放題じゃん、簡単だし楽しそう、 なんて思っていたけど、よくよく考えてみたら図書室にあるマンガの数なんてたかが知れてる。なんで手塚治虫が許されてワンピースが許されないのか、ぜんぜん意味わからない。
そんなわけで、火曜日の放課後は家から持ってきたマンガを読む日だ。あとは島田君のマンガを持ってきてもらう日。
 島田君の持ってるマンガは私とぜんぜん違うから面白い。たとえば幽遊白書。そしてハンターハンター。あれを読んでしまったら、確かに冨樫仕事しろって言いた くなるわ。今までネタかと思ってたけど。そしてハンターハンターの続巻を島田君に要求し、それが半年以上出てないことにショックを受ける。だからその仕返しとして、島田君にCLAMPの「X」を読ませる。
 続きは? と聞いてくる島田君に私は答える。
 もう十年以上出てないよ。
 あからさまに落胆した島田君を見て私は笑う。悔しかったらまずは冨樫に続き書かせなさいよ。
 でも本気で面白がってるわけじゃない。何より、私もXの続きが読みたいんだ。私はお姉ちゃんに同じことをやられたから分かる。でもそうやって、怨念は連鎖していくものなのだ。
 図書委員の仕事はそんな感じで進んでいく。委員の相方が気のいい奴で良かった。放課後の貴重な時間を取られるストレスも、それで幾分和らいでくれる。

 図書室を閉めて、帰る前にはいくつかの雑用が残っている。
 椅子や机を並べなおすこと、窓とカーテンを全部閉めること、返却された本を棚に戻すこと。
とは言っても、図書室を使う人なんてほとんどいないから、そんなの5分くらいで終わる。今日だって、本は二冊しか返っていない。
 金枝篇という本の1巻と2巻だ。私が来る前に返却ポストに入っていたから分からないけど、多分同じ人が借りたのだろう。
「分類番号3ってどこよ」私は机を片付けている島田君に聞く。「見たことないんだけど」
「またえらくマニアックなもの借りる人もいるんだね」
 図書室で本を借りる人がいても、大体の場合は分類番号9の小説か、あからさまにカウンター前に置いてある手塚治虫のマンガか、どちらかだけだ。
 なんか表紙まで怪しい、と裏返して見ようとしたとき、本の中に何かが挟まっているのが見えた。ちょっとだけ頭を出しているそれを引っ張ってみる。
 青い和紙に黄色と白の押し花。それは多分栞だ。栞だけど、またえらく古風な趣味だな。
 明らかに手作りであるその押し花の栞を、多分この持ち主は挟んだまま忘れてしまったのだろう。きっと作るのに時間がかかったであろうそれを捨ててしまうのは、あまりにも申し訳ない気がする。
「どうしたの、何か見つけた?」
 カーテンを閉め終わった島田君がカウンターのほうへ来る。
「うん、忘れ物」私は目線の高さにその栞を掲げる。「なんか手作りっぽい栞」
 ちらりとそれを見やって、島田君はこともなげに言う。「あぁ、それ、多分シオリちゃんのだよ」
 シオリちゃん?「誰それ」
「僕と同じクラスのシオリちゃんだよ、いつも本読んでるから名前覚えやすくて」
「なんだか出来すぎた名前だよね」
「名は体を表すってやつじゃないの? 使い方があってるかは知らないけど。で、そのシオリちゃんに昔見せてもらったことがあるんだよ、手作りの栞。その時のにそっくりだから、多分あってる」
「ふーん、そうなの」意外にモテるのねあなた。
 それにしてもよくできた栞だ。ハンターハンターに差すのは何か違うけれど、私の持ってる少女マンガに差すなら悪くはない。まぁ私にはこんな器用な真似はできないけど。
 そのときにチャイムが鳴って、「うわ、やべ、早く行かないとバイトに遅れる」と島田君はあわててカバンを掴む。
「あぁ、うん、後はやっとくから早く行きな」
「おぉすまんな稲垣、じゃあよろしく」
 手を振る島田君を見送る。それは太陽みたいな笑顔だと思う。もちろん変な意味じゃない。温度が高いんだ。
 サーフィンをやっているって言ってたけど、夏の間じゅう海の上で本物の太陽を浴びつづけていたからなのか。
 そりゃ確かに人に好かれるわ。
 握りしめた栞のラミネート加工が手に刺さる。これを持ち主に返さなければいけない。
 同じクラスだって言ってた島田君に持ってってもらえれば楽なのだけど、何となく渡しそびれてしまった。
 シオリちゃんって子を私も見てみたくなったのかもしれない、ちょっとだけ。

 島田君のクラスは階段を降りてすぐだ。私のクラスよりも随分手前。 通るときに時々覗き込むその教室の中は、私のクラスとだいたい一緒だって知っている。ロッカーの上にはバスケ部の私物がたくさん置いてある、そんなところまで。
 このクラスで知り合いと呼べる人なんて島田君くらいしかいないし、入ったのは初めてだ。
 西日が差し込む教室の中を見ると、女子が一人だけ残っていた。こちらには気付いていないみたいで、窓の外をじっと見ている。 確かに文庫本を机の上に置いてるけど、それは閉じられたままだ。だから、これが本当に島田君の言ってたシオリちゃんなのか、自信はない。いつも読んでるって言ったじゃんよ。
 シオリちゃんらしき人物の視線の先には窓があって、その先には海と砂浜があった。良い景色だ。私のクラスからは校舎が邪魔してこんなによく見えない。
 このまま黙っていても始まらないので、声をかけることにする。
「ねえ、あなた、シオリちゃんなの?」
 肩が跳ねる。こちらを振り向く。ミディアムボブの髪が遅れて揺れる。 声をかけられるなんて、全く予想していなかったのかもしれない、口をぱくぱくさせて、本当に驚いたという風情だ。
「ごめんね突然。図書室の本の中に忘れ物があったから、もしあなたのだったら返そうと思って来たんだけど」
 机の上に硬い栞を差し出す。窓の外の夕陽を一瞬強烈に反射する。それはとても眩しい。
 あっち向いてホイに釣られるように、シオリちゃんは私の手の中の栞を覗き込んで、
「それ、私のです。無くしたと思ってた、良かったありがとうございます」と、オーバーなほどに頭をぺこぺこと下げてくる。
「や、いいよ別に。感謝なら島田君に言ってよ、それがシオリちゃんのだって島田君が分かったから、持ってこれたんだ」
 島田君の名前を出した途端、この人は顔を西日越しの私にだってわかるくらいに赤くして、目を逸らして、そして嬉しそうに笑った。「覚えててくれたんだ、嬉しい」と。
 ふーん、と思う。なんだか面白くない。
「ありがとうございます、とても助かりました。あと、私の名前、シオリじゃないです」
「え、違うの?」
 目の前のこの子はシオリちゃんじゃなかった。けれど、島田君はシオリちゃんって言ってて、それを聞いてこの人は嬉しがって。意味わかんない。
「私の本名は奈々子ですよ、木村奈々子。シオリっていうのは、周りの子たちがこれを見て私に付けたあだ名です」
 そう言うとナナコさんは、机の上の文庫本を手に取って私に差し出す。
 その文庫本には栞がたくさん挟み込まれている。間違いなく10以上はある。
「うわ、何これ。なんか読み辛くない?」
 思わず言った私に、ナナコさんは笑って答える。「はい、すごく読み辛いです」
「しかも、どこから読めばいいか分からなくなるよこれ」
「分からないですよ。別にこの栞はどこまで読んだかの目印じゃないです。好きな言葉、後になって読み返したい部分、忘れてはいけないフレーズ、そういうものがここにあるっていう目印なんです」
「ふーん、そうなんだ」
 私とは本の読み方が全然違う。けれど別にどっちでもいい。
 一気に読み終えてしまえば、別に栞なんていらない。逆に、一気に読めないようなつまんない本なんて読みたくはない。
 会話が途切れて、ふと思い立った私は窓の外を見る。
 眼下には砂浜が広がっていて、探すまでもなくそこには島田君がいる。サーフショップの脇で、ボードを磨いている。バイト先はすぐそこだって言ってた。
「ねえ、ナナコさん、あなたの読んでるその本って何なの?」
 別に興味なんて無いけれど、手持ち無沙汰に私はそう話しかける。
「これ? これはダイアナ・ウィン・ジョーンズの九年目の魔法っていう小説」
「ふーん、聞いたことないけど、小説なんだ。なんか、ナナコさんは分類番号3のマニアックな本を読む人っていう勝手なイメージが出来ちゃってるんだよね。私と島田君の間に」
「分類番号3?」
 首を傾げたナナコさんに言う。「金枝篇とかいう凄そうな本」
「あぁ、あれは別に読みたかったわけじゃなくて」ナナコさんは机の『九年目の魔法』っていう文庫本を示す。「この本を読むために必要だったんだ」
「そうなんだ」会話をしながら私は、ナナコさんの話なんて聞いていなかった。それよりも、遥か遠くでボードと向き合う島田君の姿を見ていた。図書室ではあんな顔したことないじゃない。
 毎週毎週、ほとんど肩が触れ合いそうな図書室のカウンターの中で笑いながら本を読んで、それでも見たことのない顔を、遠くから黙って眺めるだけみたいなこの子がこそこそと見ているのだ。
 私の視線に気付いたのか、ナナコさんは確かめるように窓の外を見て、それから向きなおる。私の目を探るように見る。
「島田くんと仲、良いんだね」
 付き合ってるんだよとか何とか言えたらどんなに良かっただろう。私にはこの子が気に入らない。決定的な言葉ひとつで、ざっくりと一突きしてやりたい。けれど、すぐ分かるそんな嘘は逆に私の手を切りつけるだけだ。
「そんなことないよ、ただ一緒にやってる図書委員がすごく暇だから、二人でマンガ読んでバカみたいに笑ってるくらいの関係」
「そう、なら良かった」そう言って、私が返した黄色と白の花の栞を大事そうに眺める。「昔、島田くんに本を貸したことがあったんだ。探してた本を私が持ってるって人づてに聞いたのね。その時に使えるかなと思って挟んでたのがその栞なんだけど、本を返されたときにまず言われたのがこの栞のことだった。きれいだって褒めてくれた。だからひとつ作って渡したんだけど、今でも持ってるのかな」
「どうだろうね」
「そういうときに私は思うの。人生にも栞を挟み込めればいいのにって。こんな感じの、いちごの花で作った栞。あの時喜んでくれた島田くんの顔だとか、そういう数多くの場面をいつだって取り出せるように」
 私は逆ね、とナナコさんに言う。「面白い場面があったら、栞なんて取り出すのも惜しいから集中してどんどん読み進めたいな。きっとそう言う場面は何度だって出てくるから」
 二人の間にある栞はいちごの花。
 私は唐突にひとつの場面を思い出す。あれは中学校くらいの時だ。妹の誕生日には、毎年お母さんがいちごショートケーキを買ってくる。いちごが妹の好物だか ら。けれど私はいちごショートが苦手だ。上に載せられたいちごをどのタイミングで食べればよいのか分からないから。先に食べるには大きすぎるし、後に食べ るには酸っぱすぎる。何となく避けながら食べていた私のいちごを、横から伸びてきた妹のフォークが突き刺して持って行った。
 あまりに唐突な出来事に、私はその成り行きをじっと見つめることしかできなかった。『残してるから嫌いなんだと思った』というありがちな言い訳だった。
 別にいちごが好きなわけじゃない。正直、食べれても食べれなくてもどっちでもいい。ただ、残されたクリームだけのケーキを見て、どこか寂しい気持ちになったことを覚えている。だから私は、それからはいちごをひと口めに食べるようにしたのだ。
「私が金枝篇で調べたかったのは王殺しの話だったんだ。『九年目の魔法』で出てくる話。ねえ、図書委員さん、知ってる? 王が変わるとき、先代の王は次の王に殺されるんだって」
 今ではもう、ナナコさんの視線は探るようなものではなくなっている。夕焼けは密やかに夜へ向かい始める。
 ナナコさんは勘違いしてるよ。別に私はあなたのライバルじゃない。ただ相容れないだけ。
 ただ、これだけは知ってる。
 あなたが私の名前を知らないのと同じように、島田君もあなたの名前を知らないんだよ。シオリちゃんだと思い込んでる。そのことを私は言いたくてたまらないけれど、そんなこと絶対にしない。
 教えてあげるものか。




――――

(業務連絡)

落ちてたバトンを拾いました。お題は「栞」です。

書くのが遅くなりましたが、バトンを進めたいと思います。
次は、スポーツ雑記帳さん(http://soccer-and-others.jimdo.com/)へ、
お題「図書室」でお願いします。

※90分テキスト1本勝負:テーマ「海」
作成時間は94分。野球が気になって10分ロスしたことを考えれば、まぁ上出来か。



 私の席は窓際にあって、眼下には砂浜が広がっている。
 だから授業中退屈した時には海を見て過ごすのだ。
 例えば走り回る子供たちだったり、犬の散歩をするお爺さんだったり、手を繋いで歩いて行くカップルだったり。海は見るたびに違う顔をしているから、ずっと見ていても飽きることは無い。
 今だって海を見ている。放課後、太陽が赤く色づき始めたこんな時間に、小学校以来久々の輪飾りを編みながら。
 この時間に海を見るときはいつも、頬杖をついてみたり、顔を上げて水平線の向こうを覗くふりをしたり、いつだって言い訳がましいやり方で見ているけれど、今日はそんなことしない。
 太陽が傾くちょうど今くらいの時間には、砂浜はいつも賑やかになる。海から上がり始めるサーファーたちでごった返すのだ。
 でも今日は安心して見ていられる。
 砂浜の端にはサーフショップがあって、そこにある緑色のサーフボード。今日はずっと置きっぱなしだ。持ち主はバイトも練習も休んで、教室の端っこで段ボールを切っている。

 文化祭の準備は始まったばかりだ。別にまだ慌てるような時期ではないから、教室には他に誰も残っていない。私だって別に残る必要はないけれど、
 たまたま時間が空いたから残っているのだ。
 そう。それに、キョウカちゃんを待たなければいけないから。キョウカちゃんは茶道部で、そっちの準備があるから行かなきゃいけないって言ってた。
 ぎこぎことカッターで段ボールを切っていく音。ちらりと振り返るたびに切り取られた飾り付けは増えていく。
島田くんって器用なんだね、すごい。
 別に今日こんなに残らなくてもいいのに、頑張ってるね。
 いつも帰り早いけど、島田くんって帰ってから何やってるの?
色々な言葉が浮かんでは消えていく。掛けるべきタイミングを失った言葉たちは堆く積み重なって、私と島田くんの間で壁みたいだ。
 廊下の足音がやたらと高く響く。その度に誰か入っては来ないかと息が詰まる。そしてまた壁は大きくなる。
 さっきから手元の輪飾りは一向に伸びない。
 何か切り出せば楽になるんじゃないかと息を深く吸う。もうそれは何度目だったか分からないけれど、ちょうどその時に教室の扉が開く。
「あら、ナナコ。まだいたんだ」キョウカちゃんだった。深く吸った息が漏れていくようだ。「ちょうど良かった、ぶどう食べない?」
 キョウカちゃんは右手を振り上げる。西友の袋が、ぶんと振り子みたいに上がる。
「どうしたのそれ」
「茶道部でもらったんだ。先輩の実家から大量に送ってきたからお土産だって」
 そして私の後ろの席によっこらしょと座る。
「島田君も食べようよ。なんかたくさんあるから、女の子二人じゃ多分食べきれない」
 キョウカちゃんのその言葉に、え、と私は狼狽する。それを見て、「いいじゃない減るものじゃないんだから」と笑う。
「いいの? ちょうど腹減ってたんだよ、ありがたい」
 島田くんは意外なほど上機嫌で、私たちの席まで大股で歩いてくる。
「三人でもちょっと多いよ。デラウェア4個だから」
「デラウェアなら5個でも10個でもいけるさ」
 島田くんの食べ方はいかにもスポーツマンといった豪快さだった。10粒くらいを一気にむしり取って口へ運ぶ。
「良かった、余ったらどうしようかと思ってた」
「高梨さんは茶道部なんでしょ、いつもぶどうが食べれるなんてうらやましいな」
「今日はたまたまだよ、普段は小さいお菓子しかないから」
「それでも羨ましいよ、俺なんてサーフィンの練習中も、バイト中も何も食べれないから、いつも空腹で倒れそうなんだ」
「お腹が空いたら来なよ、栗まんじゅうくらいなら食べさせてあげられるから」
 二人の会話があまりにも澱みなく流れていて、口を差し挟む余裕がない。何なのだ。
「行きたいけどね。練習前って物食べれないんだ」
「島田くんの食べ方ってすごいね。ぶどうって皮まで食べれるんだ」
 そう言ったのは私で、言った自分でもびっくりした。
 やることがなくて島田くんの手もとばかりを見ていたら、そんな言葉が口をついて出たのだ。
「一度やってみるといいよ、デラウェアの皮って、思ったよりずっと薄いんだ」
 私のほうを向いた笑顔に、私は勇気づけられる。
「島田くんってサーフィンすごくうまいよね。どうすればあんなにうまく滑れるの?」
 ずっと聞きたかったことのひとつ。私の問いに、島田くんは顎に手を当てて考える。
「俺が滑ってるのは海じゃなくて空の上だと考えるんだ。滑ってると、波と自分の息がぴったりくる瞬間がどこかで来る。それは風を自分で作って空を飛んでいるような感覚なんだよ。海で溺れる奴はいるけど、空で溺れる奴はいないだろ?」
「まるでデラウェアの皮みたいね」
 その笑顔があまりにも眩しくて逸らした目の先、そこには水平線が横たわっている。空と海を隔てるのはこんなに薄い膜だ。
「確かにそんな感じだな」多分島田くんは笑った。「お前、サーフィンの才能あるかもな」
 薄い膜を破って、私の感情は溢れそうだった。
 それを誤魔化すようにデラウェアをひとつ、口に含む。
 溶けそうなほど甘い果汁が私の中へ流れ込む。
 それでも、あぁ、こんなに薄い膜を私は飲み込むことが出来ずにいる。


 結局輪飾りを作ることが出来なかった私は、次の日の夕方も作業を続けていた。
 今日は私の他に誰もいない。だから誰の目も気にせず窓の外を眺めることが出来る。
 眼下を見下ろした私の心臓がどきりと打つ。
 島田くんがこちらに向かって手を振っていた。
 思わず私も手を振る。何かを誤魔化すようにとても小さくだけれど。
 薄い空を隔てて、それはまるで握手をしているみたいに熱かった。


※「VIPでテキストサイト」90分テキスト一本勝負:「大掃除」
今回の記事作成に要した時間:87分


 虹はいつだってオレンジの香りがした。

 夏休み前最後の一日は大掃除をやって終わり。あまりにも呆気なく終わってしまうのだ。
 これで高校に入って7回目の大掃除、私とキョウカちゃんはいつも二人で玄関掃除をやることにしている。
 水洗いする部分が多いから不人気で、いつも希望者が居なくて最後まで余っている。だから二人で一緒にできる。
 もちろんそれだけではない。
 梅雨明けの大きな太陽の下、きれいな虹が見られるからなのだ。

 私はホースをいっぱいに伸ばして、玄関わきの植え込みに向かって水を飛ばす。太陽光がきらきらと反射する美しいアーチだ。私が作る虹は、水の軌跡ほどにはきれいな曲線を描いてくれない。いつも小さな欠片の、吹けばすぐに消えそうな弱々しい光だ。
 それに引き替え、キョウカちゃんの作る虹はいつも強くて明るい。
 同じ材料を使って、どうしてこうまで差ができるのかがずっと不思議だった。
 キョウカちゃんの手もとをじっと見つめて、その真似をする。もっと高く飛ばせば良いのだろうか。けれど、しぶきが自分の手もとにかかっただけで、全然虹は大きくなってくれない。
 そんな私をちらりと見て、キョウカちゃんは声を上げて笑う。
「それじゃダメだよ。ねぇ、きっとナナコは分かってないと思うんだよ」
「分かってない? 何が」半ばイラっとして私は言う。水しぶきまでかかって、それでもがんばって作ろうとしているのに。
「虹を作るのに一番大事なものって何だと思う?」
 キョウカちゃんはホースから出る水流の向こう、空のずっと向こうを見ている。
「そんなの決まってるじゃない」私は断言する。「雨だよ」
 虹には雨が必要だ。こんなホースの水で作るような偽物の虹なんてたかが知れている。キョウカちゃんの作る虹でさえ、台風の後にかかる巨大なアーチには比べるべくもない。
「違うよ。」キョウカちゃんは水の行方を追ったまま、顔色一つ、声色一つ変えずに言う。「虹を作るのに一番必要なのは太陽の光」
「そんな、だって雨が降らなきゃ虹なんて」
「ねぇ、ナナコ、夏休みって楽しみ?」
 キョウカちゃんは私の抗議を遮って問う。それがあまりにも唐突だったので、訳も分からず、反論する気を失ってしまう。
「え、いや、楽しみは楽しみだよ、旅行も行けるし」

 ふと逸らした私の視線が、下駄箱の一角の明るいオレンジ色の靴を捉える。それはいつも通り汚い。月曜日にはたまにきれいになっていたりするけれど、結局数日も経たずに土だらけに汚れてしまう。
 校舎内に充満していたオレンジの香りが、突然私に向かって吹き付けてきたように感じる。洗剤として使っているオレンジクリーナーの香りだ。どんどん上昇していく気温の下で、むせ返るように濃密なオレンジ。
「ふーん、それならいいけど」
 キョウカちゃんはやはり顔色一つ変えない。
 心の底に引っかかった骨みたいに疼いて消えてくれないことがある。この炭酸みたいにしゅわしゅわと立ち上っては消えるオレンジの色をした靴。毎日のように眺めては、どんな一日を送ったんだろうって想像したり。
 夏休みには空になってしまう下駄箱。例えば、北の空を見ればいつでも見えるランドマークタワー。それがある日突然消えたら、多分同じことを思うだろう。
「ねぇ、キョウカちゃん」声を出してはみたけれど、何を話せばいいのか分からない。だって、この靴のことも、その持ち主のことも、私のこの身体の中から一歩だって外に出たことはないのだ。
「虹を作るには、この太陽みたいなとても強いエネルギーが必要なの。蛍光灯に水かけたって虹なんかできない」キョウカちゃんはまだ空に向かって水を架け続けている。「あなたは、太陽の光をもっと見たほうがいい。そうすればきれいな虹ができるから」
 私は太陽を見上げて、眩しくて手を翳す。予想以上に太陽は眩しい。
 そして私は太陽を目がけて水を架ける。

「何も言わなくても分かるよ、ずっとあなたを見てれば分かる」
 その声がよく聞こえなくてキョウカちゃんのほうを振り向く。
 水を含み過ぎた大気の中、キョウカちゃんの手もとの虹は消えかけていた。




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