カテゴリ: 短編小説のようなもの

タコも卵も買ったし、ソースは銀座まで行ってイカリソースを買ってきた。しかしなんで東京のスーパーにはイカリソースが無いんだ。オタフクソースで満足してドヤ顔。それが東京の限界なのか。
小麦はデパートで訳分からん最高級品を買ってきた。バイトの時給3時間分だ。でも多分おいしいんだろう。
そしてかつお節。こいつが無いと話にならない。もちろん最高級品。大袋でバイトの時給3時間分。
このタコ焼きには俺の1日分が詰め込まれている。まさに魂を削って作ったタコ焼きだ。

アヤカは言ったのだ。その青磁を打ったような透明なアルトを俺に向けてくれたのだ。確か壁際の席で、二人で話しているときに。
「ねえ、コウタ君って大阪人なんでしょ?」
だから俺は答えた。
「大阪も大阪、ど真ん中やホンマ、ミナミ言うたら日本の大阪のヘソやがな」
「へー、関西弁なんだね、コテコテ。面白ーい」
「出身は岡山県やで、岡山生まれだけど魂は大阪に染まってしもたんや」
「やっぱり大阪は濃いんだね、ネイティブにしか聞こえないよー」
しかしもちろんガセだ。大阪にいたのは一年だけ。予備校の友人はネイティブ大阪人だったから試しに使ってみたこともあったが、その時には大爆笑された。
曰く、「ジブン勘弁してくれや、アホやなー、多分中学生がドヤって外人に話しかけたくらいのギャグやで」
でも東京人には通じてくれた。また笑われたらギャグで押し通すつもりだったけれど。
そう。アヤカは東京人だ。絵に書いたような東京人。服のセンスやファッション小物の使い方はドラマから出てきた女優のようで、話し方とか細かい動作も美しい。別に演技じみた美しさではない。夜更けに森の奥の泉でアフロディーテが何の気なしに髪を掻き上げるような仕種。光の粒がこぼれるのだ。
神話とか読んだことないから適当だけど。
「ねぇコウタ君」そんなアヤカは言った。「たこ焼きは好きですか?」
「タコ焼き? そりゃ大阪のソウルフードですよアヤカさん。タコ焼きが嫌いな大阪人なんているわけないでしょうよ」
「やっぱり、大阪人はみんなたこ焼き器持ってるの?」
「いや、むしろ持ってない方がありえへんって。向こうでは一人一台が当然だったけど、東京の人は持ってないん?」
「そうなんだーすごいよ、コウタ君の作ったたこ焼きが食べたいな」
「アヤカさんのためならいつでも作ってやりますよ、何なら明日にでも」

そして話はとんとん拍子に進み、気が付けばアヤカがうちに来るという話になっていた。
しかしうちにタコ焼き器はない。俺は岡山県民なのだ。
じゃあ来週にしましょうということで猶予は一週間、アヤカが来る前に、やることは色々あった。
掃除をして、クックパッドでタコ焼きのレシピを見て、材料とタコ焼き器を買いに行って、焼く練習をした。
滅茶苦茶に焦げ付いてぱさぱさしていたけれど、あれは多分ソースが悪かったのだ。
だから再び買い物に行って、ネットで評判の良かったイカリソースを買ってきた。
何度も練習をした結果、確かにタコ焼きの腕は上達したけれど、その代償として、もうしばらくタコ焼きを見たくなくなった。
長かったタコ焼き地獄から今日で解放されると思うと、何か感慨深い。

ちらりと時計を見ると、もうすぐ18時。そろそろアヤカが家に来る時間だ。
もちろん酒も用意した。アヤカの好きなカシスオレンジの材料、そしてカルーアと牛乳。
この一週間で酒についても研究した。そこで生み出した最強のカクテルがホットカルーアだ。これは想像以上に凄かった。作り方はいたって簡単、ホットミルクを使ってカルーアミルクを作るだけ。まず、ホットにすることで味が丸くなる。寒い時に飲むカフェオレのような優しい味。さらに、温めることでアルコールの回りが異常に早くなる。調子に乗って飲んでいて、4杯目で意識を失って気付いたら翌日の昼だったりした。授業の単位はほぼ絶望的な状況だけど、この最強カクテルを生み出せたのだから安い買い物だ。
これをどう使うかは、まぁ成り行きだな。
材料をテーブルに並べていると、玄関のベルが鳴った。それは天使が吹くラッパのような世界を丸ごと塗り替えてしまう美しい音色、さぁパーティーが始まる。
玄関のドアを開ける。「どうもー、こんばん……わ……?」
ドアを開けたのに、そこには再び壁があった。誰だよこんな所に邪魔な壁を作ったのは。
「どうしたの固まって、呼ばれたから来たんだけど」
壁が喋った。怖っ。なんだよ、何かの呪いか地縛霊か。ここが事故物件だったなんて聞いてないよ俺。
「こんにちはコウタ君、来たよー」固まった俺と壁の間に割って入るように、壁の向こう側からアヤカが現れた。「今日はよろしくお願いします、ほら、ミユキもちゃんと挨拶しないと」
どうしたアヤカ、壁に向かって話すなんて。と思っていると、壁が動いた。そして喋った。
「よろしくワタナベ君、私はちょっとタコ焼きにはうるさいよ」
「初めて入る男の子の部屋だから、ミユキも緊張してるんだよ。ごめんねー」
アヤカが言う。
そうだ。そういえば見たことあるぞこの壁。ゴンダワラだ。
「あぁよろしくアヤカちゃんと、ゴンダワ……いや、ゴンダさん」
どう見ても100キロ越えの、一度見たら忘れられない強烈キャラだ。なのにすぐには人間と判別できなかったのは、脳が覚えることを拒否したのか、強制消去したいくらいの凄まじいビジュアルだからなのか、そもそも大きすぎて人間と認識できなかったからなのか。
「突然来たから、人間だと認識でき……いや、驚いたよ」
「いや、アンタが私も呼んだんでしょ」
「え」
「やだなーコウタ君、あの時、私とミユキと両方呼んでくれたじゃない、もしかして酔ってて約束忘れちゃった?」
マジかよ。
あの時の記憶を冷静に思い出す。アヤカと二人だけで話していた壁際の席の様子。他に人間は居なかった。あとは壁しかなかった……壁しか……
ちらりとアヤカの後ろを見る。
そこには大きな壁が立っていた。
「大丈夫? 迷惑だったら帰るよ?」
いや、それはまずい。今までの苦労が全て無駄になってしまう。
しかし、そうなれば成り行き上、ゴンダワラも入れなければならなくなる、が、ゴンダワラの重みにうちの床が耐えきれるかどうか……
仕方ない。
「覚えてるに決まってるでしょ、ちょっとした焦らしプレイですよ」
「焦らしプレイとか、ワタナベくん、女子の前で何かエロくなーい?」
体をくねくねさせるゴンダワラ。おいやめろ。お前が変に動くと建物が崩壊する。
そういえば、天使のラッパって、世界崩壊のお知らせだったか。

タコ焼きを焼いている間は暇なので、酒を飲ませることにする。
作戦変更だ。新しいカクテルを開発したんだ、とホットカルーアを渡す。こいつを使って平和をこの手に取り戻すのだ。
「何これおいしい!」と凄い勢いで飲む二人。
ゴンダワラのカルーアはアヤカの10倍のやつを渡してある。猛獣用の配合にすることで早く眠らせ、タコ焼きパーティーに光を取り戻すのだ。
「おいしいやろ? 女の子向けの優しい特製カクテ「おかわり!」
俺の言葉は、言い終わる前にゴンダワラの咆哮に打ち消されてしまう。
「ゴンダワ……ゴンダさん、もう3杯目だけど、大丈夫?」
「何これ、薄いんじゃないの? ケチらないでもっと強くしてよ」
何だよ。人様の家のカルピスにケチをつけちゃいけませんって子供のころに躾けられなかったのか。それとも、もっと強い奴に会いたいっていう野生の本能なのか。
ならば望むところだ。猛獣用なんて生ぬるい、ゴンダワラスペシャルだ。
配合は簡単だ。カルーア33%、大五郎33%、その辺に転がってた消毒用アルコール34%。これをレンチンして出せば如何にゴンダワラと言えども仕留めるこ「おかわり!」
俺の自信は鬼の雄叫びに粉砕される。
追加のゴンダワラスペシャルを作りながら、俺は背水に追い込まれたことを悟っていた。この方法はまずい。高価なカルーアがジャングルの水場のように飲み干されていく。
最終的に、ゴンダワラスペシャルは大五郎70%、消毒用アルコール30%にネスカフェゴールドブレンドを混ぜた物になっていた。

そんな中で、やはりアヤカは天使のようだ。いや女神か。2杯目のホットカルーアで顔を赤くし、「なんか気持ちよくなってきちゃったー」と舌足らずな言葉。
そうだよ。これが正しいタコ焼きパーティーの姿だよ。もうその横の生物が地獄の番犬ケルベロスにしか見えない。グルグルと唸りながら酒を煽るその姿。どこが顔だかも分からない。
タコ焼きをくるくるひっくり返すのを見ながら、「やっぱりうまいねー」と笑顔。アヤカは笑うと垂れ目が強調される。それがすごく可愛いのだ。
「大阪人としての最低限の嗜みやねんな」
血を吐くような練習の成果だ。
ようやく焼けたタコ焼きを皿に盛る前に、アヤカは既に割り箸を割って待ち構えている。「まだかなまだかなー」
「そんなに慌てなくても、あとちょっとだから待っててや」
ゴンダワラはタコ焼き器から直で食べそうな勢いだ。お前はちょっと自重しろ。
「13個できるから、まずは一人4個ずつで行こうな」
すぐに食い尽くされないよう、皿に移す前に予めゴンダワラに釘を刺しておく。
「大阪人はタコ焼き食べ飽きてるんじゃないの? レディーファーストで私とアヤカで7個ずつだよ普通は」
「そろそろいいかな」ゴンダワラを完全無視してアヤカに向けて言う。アヤカはアルコールが回りとろんとした目のまま頷く。
13個を一気に皿に乗せ、ソースとマヨネーズをかける。
「すごーい、さすが大阪人、屋台で売ってるやつみたいだ」
アヤカの言葉に笑って頷く。そりゃ、1週間かけて練習したからな。
そして最後にかつお節を一つかみ、どばっと振りかける。やっぱり良いかつお節だ、水分と熱を得て、ものすごいスピードで踊りはじめる。
「わー、踊ってる!」目をきらきらさせて覗きこむアヤカ。「削り節が生き物みたいだ」
「削り節……?」
「え? 削り節って言わない? 私何か変なこと言ったかな」
「いや、そんなことないと思うよ」
それ、すごく良い。削り節って。その昭和感あふれる言い方と普段のアヤカとギャップ。凄まじく可愛い。笑いが顔に出てしまう。
そういえば、ゴンダワラはどうしたんだろうか。俺を突き飛ばして皿ごと食べ始めそうな奴は。と見てみると、床に崩れ落ちて大口を開けて寝ていた。
良かった。世界の平和は守られたんだ。
居るだけで色々と邪魔そうだけど、それは後で考えるか。最悪、アヤカに気づかれないように外へ投げ捨てておこう。
「熱いうちに食べてよ、冷めるとおいしくないから」
「はーい、いただきます。でもなんか食べるのがかわいそうだな、こんなに踊られてると」
削り節の踊りはさっきよりもさらに激しくなっている。これから食われるとも知らずに、バカでかわいそうな奴だ。
「ちなみに、口の中をケガしない食べ方としては」
箸でタコ焼きを割り、中を混ぜてからアヤカの目の前へ運ぶ。「こうやって冷ますと良いんだよ」
もちろん、これも誰かのブログで得た知識だ。
アヤカは一瞬、目の前のタコ焼きをじっと見つめてから、ぱくりと食いついた。箸の先にアヤカの体重を感じる。
そして、アルコールのせいで荒くなった吐息。
これだよ。障害物がなくなって、ようやく良い展開になって来たじゃないか。
「おいしいー。タコ焼きもソースも削り節も、なんか今まで食べたことないくらいおいしいー」
そりゃ、このタコ焼きには俺の食費と魂が凝縮されているから。
満面の笑みを浮かべるアヤカを満足して見つめる。やっぱりこいつは異常なくらいに可愛い。女神様だ。ありがとう。
タコ焼きを食べ続ける姿を見ているだけで満足だ。
見かけによらず、口を目いっぱいに開けて一口で食べるけれど、その口は異常に小さい。だから全然下品には見えない。むしろ、子供が一生懸命食べているようで微笑ましい。
「ミユキちゃん、寝ちゃったね。大丈夫かな」
「疲れてたのかな、まぁ今は寝かせておいてあげようよ」
後でまた焼くから、とゴンダワラの分のタコ焼きをアヤカに渡すと、「ありがとう」と笑って食べ始める。
「コウタ君は良い父親になると思うよ」
「え、どうして」突然の言葉に息が止まりそうになる。
「こんなに料理がうまくて、しかも大阪人で話も面白いんだもん。こんな人と結婚できる人は幸せ者だよ」
だったら、付き合おうよ。絶対に幸せにしてやるから。そう言いたかったけれど、うまく言葉が出てこなかった。
あぁ。そのきらきら美しい瞳に吸い込まれそうだ。凪いだ森の奥みたいに静謐なその瞳に。
思わずその頬に手を伸ばす。
「どうしたの?」
首を傾げるアヤカに言う。「ソースがついてたから」もちろんソースなんてついてはいないけれど。
「それは困っちゃうなぁ、取らないと」
再び伸ばした手は、その頬との距離を刻一刻と詰める。それはとても遠い距離で、そして――
突然携帯の着信音が鳴った。
誰だよマナーモードにし忘れたやつは。また空気が読めてないゴンダワラか、とゴンダワラを睨みつけようとすると、
「はーい、もしもし」
電話に出たのはアヤカだった。「あ、うん、分かったー」
アヤカなら仕方ないか。
「うん、すぐ行くよー、愛してるね、じゃぁ」
仕方なくねぇよ。
「えーと、誰でしょうか今のは」
電話を切ったアヤカに恐る恐る聞いてみると、
「ん、カレシさんだよ。この後会う約束をしてるんだ」ふわりと立ち上がるアヤカ。「ソースついてたらまずいなぁ、ね、どこについてるの?」
「あぁごめん、見間違いでした」
「そう、良かった」アヤカは赤い顔のまま玄関まで歩いていく。
俺はただ、その後を着いていくだけだ。「アルコール回ってそうに見えるけど、大丈夫?」
「うん、すぐそこまでカレシさんが来てるからー。本当においしかったし、レシピも参考になったよ。今度は自分でも試してみるね」
じゃ、とドアを開けて去っていく。その足取りはおぼつかない。
なんだよそりゃ。なんかおかしくね?
後に残されたのは、本当に今までアヤカがいたのか分からないような静まった部屋。

いや、それは嘘だ。
部屋に戻ると、巨大なモンスターが待ち受けていた。
「あ、ゴンダワラさん、起きてたんですか」
アルコールで真っ赤な顔。まるでゴンダワラはロシア原産の熊みたいな見た目になっていた。
あの程度のアルコールではゴンダワラを仕留めることなんて出来なかったらしい。ふーふーと荒い息をついた手負いの獣。
「ワタナベくん」据わった眼をしている。今にも飛びかかりそうだ……あぁ、間違ってゴンダワラって呼んだからだろうか。
「私……酔っちゃったみたい」
「え」
ゴンダワラの手には携帯が握り締められている。まるで準備運動に潰そうとしているような図だ。
何やら光っているので目を凝らしてみると、次のような文章が見えた。

邪魔者は去ります。
後は頑張ってね。
アヤカ

気付けば、テーブルの上のタコ焼きは冷めきって、かつお節はすっかり踊るのをやめてしまった。
くたくたになって潰れている。

そうか。
ようやく分かりました。
ドアのベルが鳴ったあの瞬間、
天使のラッパが聞こえたあの瞬間、
確かに世界は終わっていたのですね。 

 

「お願い高井くん、家まで送ってって」と、山中さんは言った。顔の前でぱんと合わされた両手に、ゆるやかなミディアムヘアがふわりと揺れた。
 これが例えば飲み会の帰りだとか、重い打ち明け話の後だとか、そういう場面であればもう少しロマンチックな想像も膨らんだのだろうけれど。
「他の人たちはどうしちゃったんです?」
 事務所には誰も残っていなかった。蛍光灯もあらかた落とされていて、僕と山中さんの机の周りだけが明るく照らされていた。
「みんなチャイムが鳴り始めた瞬間に帰って行ったよ。今日はすっごい早かった」
 窓の外は事務所の中よりも明るい。昼過ぎから降り始めた雪が力を増しながら降り続いているからだ。いつの間にか牡丹雪になっていて、地面も白く染まってしまっている。
「だったら、別に僕を待たなくてもよかったんじゃ……」
「頼んだんだけど、みんな帰りが逆方向だったの。高井くんだけがおんなじ方向だし、スタッドレスだから安全。だから乗せてってもらえばいい、って言ってた」
 ささやかな抗議の声は、これ以上ないほどに理論的な反論にかき消される。これでは体のいいアッシーだ。
 実際、別にそこまで嫌なわけではない。ただ、あんまり話したことのない女性の先輩と一緒に帰って、何を話せばよいのかと気詰まりなだけ。そもそも帰る方向が同じだということすら知らなかったくらいだ。
「山中さんも学園都市方面なんですね」
「うん、そうだよ。」そしてにっこりと笑った。「私はさらにその向こうだけど」
「――うちよりもさらに遠いんですね」
「よろしくお願いします」
 この人はずっと年上らしいけれど、美人というより、年下の元気な可愛い後輩みたいに見える。声がハスキー気味だから尚更。ぺこりと頭を下げて、ふわふわと揺れるゆるやかなキャラメル色の髪の間から上目づかいで見上げられると、なるほど、確かに、何も言い返せない。


「やっぱりスタッドレス履かないと怖いね」
 下駄箱から出てみると、景色は一面、地面も空も真っ白な世界だった。ところどころに足跡が残っているものの、その上からさらに積もっていく雪が次々に消していってしまう。
「スタッドレス、使わないんですか?」
 雪原の中へとベージュのブーツをおそるおそるといった様子で差し出していく背中。その小さな背中に問いかける。
「ふだんは使わないよ。」視線は自分の50センチ前に注いだまま。「だって、普段はこんなに雪降らないし」
「そうですか。雪が怖いから履いとけって、いろんな人に騙された。」
 そう言うと、山中さんは、あはは、と笑った。
「でも良かったよ。」うん大丈夫だ、ふかふかだから絶対に滑らない。そう言って山中さんは雪の上を無造作に歩き始める。さくさくと音を立てながら。「高井くんが騙されてくれたから、私はこうやって安心して帰れる。こんな中、自分じゃ絶対運転できない」
それは良かったです。と、生返事をする。
「でも、久しぶりに見ましたよ。こんなに雪が降ってるところ」
 手を腰の後ろで組みながら空を見上げて歩く山中さんに言う。
「うん。私もすっごい久しぶりに見た。小学生とか中学生の時以来かも」
「高校生くらいの時までは、雪は特別で、もっと積もらないかなって楽しみにしてましたけど。」前を行く山中さんの背中を見る。その足取りはこんな中でも軽かった。「今は全然ダメですね。通勤がめんどくさくなるから早くやんでほしい、ってそう考えちゃいます」
 間断なく積もっていく雪の向こう、空から注ぐ何千何万の光を浴びながら。まるでスローモーションのように、山中さんは足を止める。首をかしげる。ふり向く。くるりと舞うミディアム。
「そう? 私は今でも、雪、好きだよ」
 それは不意にきらりと現れた稲光のようだった。
 芝居がかった振り返り方と、真冬の風に煽られて赤らんだ白い頬。こんな中でもなお柔らかな髪。それを雪のカーテン越しの真正面から見て、体の奥、心臓よりももっと奥がきりきりと痛んだ。まるで透明に燃えて輝くダイアモンドダストを一息に吸い込んだみたいだった。
「それは、こんな中を自分で運転しないから言えるんですよ」
 その感覚に背を向けるように弱々しい憎まれ口を叩くと、
「うん。すごく助かる。ありがとう」
 と言って山中さんは笑って、僕は慌てて目を逸らす。
 駐車場には、既にほとんど車が残っていなかった。あのデミオですよ、と言うと、
「すごーい。車が雪だるまみたいになってる」と山中さんは駆け寄る。
「ちょっと待っててくださいね、エンジンをかけます」と言って、エンジンをかけると同時に車の中を見る。ちゃんと掃除をしておいてよかった、と今になって思う。
 車の雪をぱたぱたと払っている間、山中さんはくるくると回っていた。
「目が回りそうですよ」
「だって、すごいよ。こんなにつるつる滑る。歩くとざくざくしてるのに。」
 くるくると回りながら、山中さんは右腕をいっぱいに宙に伸ばしていた。ただそれだけのことで、取るに足らない雪のかけらは羽根みたいに見えた。
 赤いロングコートを翻して、雪のかけらをいくつも、その小さな手に握りしめる。
 それは吹き抜けた教会の屋根に描かれた聖書の一篇みたいな光景だった。とても美しく、手が届かないほど遠く、でも自分の世界を構成する一要素としてすとんと身体の中に落ちていく。
 あなたの周りのその羽根は空から降っているのか、それともその身体から舞っているのか。
「山中さん、なんかクリスマスみたいになってます」
「クリスマス?なんで」
「髪に雪がいっぱいついてて、オーナメントをたくさん付けたくなっちゃう」
 ゆったりと巻かれたカールにたくさんの雪を抱いて、暖かなキャラメルみたいな色の髪は暖炉でぱちぱちと爆ぜていく火花をやさしく見守っているかのよう。
「プレゼントを置いてくれても良いよ」
 髪の中に、赤いコートに、ロングスカートに。羽根は雪みたいに、隠しきれないくらいに身体中に見えた。
 ただその姿がとても眩しかった。
 こうやって、と思った。
 そうか、こうやって人は、特別な存在になるのか、と。


 いつも見慣れた帰り道は姿を変えていた。
「すごーい。ファミマの駐車場が大雪原になってる。なんか知らない街に来たみたい」
 畑とか陸橋とか信号とか、山中さんは、何かを目にするたびに声を上げる。
「そうですねぇ。何か、雪が降って、町が広くなったみたいな気がします」
 何もかもが白一色に塗りつぶされていた。道路も、建物も、空でさえも。まるで周りの景色すべてがふわふわと浮遊しているみたいで、まったく現実感がない。
 助手席のキャラメル色の髪。
 唯一、いつも車のラジオでかけているJ-WAVEだけが現実との接点に思えた。雪が降り続いています、というニュース。
「見てよ高井くん、あの公園の箱ブランコまで……あれ」
 急に黙り込んだ山中さんは、下唇に人差し指を押し当てて何か考えるように虚空を見ている。
「ん? 何かありましたか?」
「うわ、なんか懐かしい。この曲。知ってる?」
 J-WAVEは何かの曲のイントロを流し始めていた。ベルの音色と降り積もるようなドラム。
「いや、分からないです。……あ、でも、ボーカルは奥田民生っぽい」
「ユニコーンのいちばん有名な曲だと思うんだけど」
「ユニコーンとか、活動してた時期のこと知らないんですけど。奥田民生のソロしか知らない」
「そうなの? いや、歌えば思い出すよ。ぼーくらーのまーちーにー、ことしもゆーきーがふるー」
 それは普段のハスキー気味の声からは想像もつかない、透き通った歌声だった。
 驚いたけれど、知らないものは知らない。「……いや、ごめんなさい。知らないです」
「そうなんだ……高井くんってもうそんな世代なんだね。なんか衝撃のジェネレーションギャップ」
 あはは、と、山中さんは少しさびしそうに笑った。
 奥田民生の気の抜けたような歌声がにわかに存在感を増して、それに山中さんの小さなハミングが混じる。
 たまには二人で、じゃま者なしで、少し話して、のんびりして。
 それはやはりとても美しい声だった。多分この歌は一生忘れない。
「じゃあさ、この曲ならどう?」奥田民生の歌声が消えてナビゲーターが再びしゃべり始めたところで、山中さんは歌いはじめる。
 きみはぼーくーをー、わすれるーかーらー、と。
「いや、ごめんなさい、全然知らないです」
「なんか溝を感じちゃうなぁ。溝というよりもむしろ壁か。高くてかたい壁。ユニコーンがすごく好きで、私はその昔、CDまで買ったのに」
 久しぶりに引っ張り出して聞くわ、もう今の人には理解されない悲しみを感じながら。と、山中さんは言った。
「だったら、CD貸してくださいよ。」赤信号で、長いブレーキをかけて車は止まる。それをきっかけにして話しかける。「山中さんが好きな曲、聞いてみたいです」
「そうね、そうする」そして楽しそうに笑う。「私が好きなものを布教してあげる。高井くんも絶対に好きになるよ。」
 雪はいよいよ強さを増して、道路さえも隠しはじめる。標識も制限速度も見えない。停止線も完全に消えているから、どこで止まるべきなのか、どこまで走って良いのかが分からない。
 走っている間にも、景色は刻々と塗りかえられていく。
 
「あとはそのローソンを右に曲がればうちに着くよ。」
 視界の端に見え始めた青く光る看板を指す。
「言うほど遠くなくて良かったです」
「ありがとう。あと、わがままついでにもうひとついいかな?」
 助手席から身を乗り出してこちらを見ている気配が伝わって来る。雪道だからそちらを見られないことを、とても惜しく感じる。
「はい。もうここまできたら何でも来いです」
「もう今日は外に出たくないから、買い物したい。ローソンに寄ってもらっていい?」
「コンビニ弁当ですか?」
「そんなわけないじゃない。ちゃんと自炊してます」
 エプロンをつけて、包丁を持ちながら真剣な眼差しでまな板を見つめる姿。確かに、それはとても似合いそうな気がする。でも何か作り物めいたその姿は、主婦というよりも家庭科の授業みたいだ。
「いいなぁ自炊。今日は何を作るんですか?」
「あったかいものが食べたいから、クリームシチュー作ろうかなって考えてたの。サーモンとほうれん草のシチュー」
 駐車場を横目にとらえて、右折のウインカーを出す。対向車は全然来ていない。
「クリームシチューかぁ。ここ数年食べてないですよ。聞くと食べたくなっちゃう」
 駐車場の雪はまったく踏み固められていない。平然と運転しているつもりでも、ハンドルを取られたりブレーキがかかりづらかったり。思いもかけずに危険な運転になってしまって、どきりとしたりする。
それでも山中さんは平然としている。
「シチューは煮るだけだから、やってみれば意外に簡単だよ」
 車はコンビニの入り口にいちばん近い場所に止まる。
「いいことを教えてあげる」
 シートベルトをしゅるしゅると外して、山中さんはこちらを向いた。身長差があるからどうしたって上目遣いになってしまうその顔は、雪が乱反射しつづけるコンビニの明かりに照らされて、月みたいな美しさを覗かせていた。
「――いいこと?」
「うん」
秘密の耳打ちをするように、声音を落として山中さんは笑う。唇のグロスがきらきらと桃色。
今まで気付かなかった薔薇の香水が俄かに存在感を増す。 
「シチューの隠し味には白みそを入れると深みが出るの。とってもおいしくなるよ。うちに伝わる秘伝のレシピ」
秘伝だからあんまり誰にも言ったことないのよ。そう言い残して山中さんはドアを開けてコンビニの中へ入って行った。
 白みそ。
 そうですか。
 多分、自分でクリームシチューを作ることなんてこの先一生ないと思う。けれどそのレシピを食べてみたい。おいしいという秘伝のレシピ。だから覚えておこうと思った。覚えておかなければいけない。
 ラジオは再びニュースを流し始める。今夜は大雪になるでしょう、と。
 それにしても。停車位置はここで合っているのだろうか。線が雪に埋まっていて見えないから、正しいのかわからない。
 とは言っても、周りには車の姿がまったく見えない。心配することはないか、別に間違っていたって誰にも迷惑は掛からないし。そう思った。
 ローソンの中を覗き見るけれど、ガラスは曇りきっていて中の様子を窺い知ることはできなかった。山中さんは何を買っているのだろうか? 一緒に行けばよかったかもしれない。
 行ってみようかな、とエンジンキーに手をかけながら迷っているうちに、山中さんが走って戻ってきた。
「寒いなぁ、車の中が暖かいから油断してた」がちゃり、と助手席のドアが開いて、手袋をしたままの手をこすり合わせながら入ってくる。「考えてみれば外が寒いことくらいわかるのに」
「何を買ってきたんですか?」と聞くと、
「牛乳だよ。ちょうど切らしてたんだ」そして、ごそごそと袋の中を探る。「あと、はい。これ」
 そう言って山中さんがこちらに差し出してきたのは中華まんだった。
「肉まんですか?」
「もちろん肉まんだよ。こんなところで人にあんまんを勧められるほど私は強くないよ。」
 そう言って、自分も袋の中の一つを取る。
「私が高校生くらいだったときは、帰り道で肉まんを買い食いすることがいちばん冬っぽい行動だったのよ」空になった袋をくしゃりとコートのポケットに突っこむ。「あなたたちの世代がどうなってるか、私には全然わからないけど」
 山中さんは肉まんにぱくりとかじりつく。口が小さいから、ひと口では具にまで行き着いていない。
「僕たちも一緒です」冬に入るコンビニの暖かさ。部活の後で冷めた手を温めながら、肉まんを頬張っていた。「山中さんと同じです」
 かじりついた肉まんの皮はぼそぼそとしていて、具だってお世辞にもジューシーとは言えない。おいしくなったとは言うけれど、あの頃食べていたのとまったく同じ味だ。
 ローソンの青い看板、手袋の上からでも感じる暖かさ、前を歩くピーコートの女子生徒。それはまるで古い写真立てみたいに記憶の中で何度も眺め続けた風景だけれど、今、記憶の中にいる女子生徒はふわふわの茶色いミディアムヘアをなびかせながらくるくると回っていた。
 羽根が舞っていた。
「同じなんだね。良かった」
 山中さんは微笑んでいる。窓の外に積もり続ける雪を眺めながら、微笑んでいる。
「今気づきましたけれど。やっぱり雪って良いものですね」
 見慣れたはずの景色。それは変わらずにずっとそこにあるのに、全然別のものに変わってしまったように見える。
 もういい加減に見飽きていた景色。夜まで降り続けるという雪は、この景色をまだ変えていく。もっと遠い所へと。いったい、どこまでを見ることが出来るのだろうか?
「ね、すごく良いでしょ?」山中さんは肉まんを両手で持ちながら、まるでリスみたいだ。「私の好きなもの、ひとつ布教完了したのね」
 雪はいつまで降り続けるのだろうか。いずれ止むのは間違いないのだけど、では雪が溶けた後の町はどうなるのだろうか。見慣れたいつもの町に戻るのだろうか。
「なんでも布教してくださいよ、いくらでも染まりますから」例えば白みそ入りのクリームシチューとか。
 もし、いずれ溶けてしまうものだとしても。今は。雪が降っている今だけは。いつもと違う景色を眺めていたい。

その言葉を口にした瞬間に、彼女の恋は終わっていたんだ。

彼女の口がひとつの言葉を紡ぐ。
「好きよ」というただその一言、そして差し延べられた手、そういった物たちを取ること。それはどう転んだってあり得ないことで、おそらく彼女自身にだって分かっていたと思う。
けれどもその瞬間に立ち止まってしまった僕は、次の一歩を踏み出せずにいる。
目の前の白くて細い腕を手首を指を、押し返すことも出来ずにいる。
どういう言葉で伝えればいいのか。
この時間、この距離、これからまだ続いていく二本の長い道、彼女を最も優しく包み込む言葉を探している。そっと柔らかく暖かく押し出していくような。
幾つもの言葉が虚空へ消える。肺を満たしてはぽろぽろと零れる。
僕は迷っている。

いくつもの光を見送った後、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「やっぱり思った通りの結果」ため息とともに肩を落とす。
「……ごめん」
彼女の目さえ見られずに謝る僕を、彼女は刺すように見ている。「なんで、あなたが謝るのよ」
「いや、だって――」「やっぱいいや」僕の言葉は遮られる。
「あなたは勘違いしてるかもしれないけど」彼女は言葉の鼻先を掴んで投げ捨てるようだった。「あなたの返事なんて、もうどうでも良いんだから」
「私が言ったのは、やっぱりあなたは肝心な時に迷ってばっかりの男だってこと。YesかNoかくらいハッキリしないと、お互いに時間の無駄」彼女は僕に、口を差し挟む暇さえ与えてはくれない。「お互いに、先はまだまだ長いんだから」
差し出されたままの手は、僕の胸の真ん中を強く付く。まるで刺し貫くように。
「だから私から、あなたを振ってやるんだ」
そして下ろされた手を追うように腕を伸ばす。そして抗議する。
「いやいやちょっと待ってよ、なんでこっちから告白したけどフラれたみたいになってるの」
彼女の握りこぶしが僕の手のひらの真ん中を叩く。甘やかな衝撃がじんわりと広がる。
「いいじゃないそれで、私はあなたを選ばなかった、私の恋は終わった」
最後の光とばかりに賑わう声を遠く聞きながら、光も当たらない校舎の端が何故こんなに眩しいのかと訝る。南風の通らない廊下の片隅がどうしてこんなに暖かいのかと考える。
彼女の右手が触れたままの右手が熱い。
「ねえ、どうせその上着、もう着ないんでしょ」
開いたままの彼女の左手が、僕の着る濃紺のブレザーを引っ張る。
「どうせ今日で最後だから」僕が答えると、
「じゃあ、ボタンくらいはもらってあげる。どうせあげる人もいないんだろうし、余っても無駄だから」
「第2ボタンってやつ? 別にいいけど」
「違う、だから勘違いしないでって」彼女は上着のポケットから糸切りばさみを取り出す。「全部だよ」
抗議する間もなく、制服のボタンは全てはさみで切り取られる。前だけではなくて、袖のボタンまでも全て。その時に僕が感じていたのは、彼女の右手が離れたあとの空気の冷たさだった。
「まるで強盗みたいだよ」
そんな僕の言葉を無視して、計7個のボタンをじゃらじゃらと弄びながら、
「私は大学に入って、楽しく過ごして、とてもきれいになるんだ。そしてあなたは、何であの時に捕まえておかなかったんだって悔やむ、でももう遅いんだ。きれいな花が欲しかったら、咲く前に取らなきゃ駄目。そうしないと目敏い誰かに摘まれちゃうから」
じゃあ私はもう行くね。
そして彼女は踵を返す。ふわりと髪が舞い、彼女の表情はもう見えない。
何か言わないといけない、何故だかそんな気がして必死に言葉をかき集めたけれど、
「卒業おめでとう」
出てきたのはそんな陳腐な言葉だった。
「あなたもね。卒業おめでとう」
そして彼女は振り返らなかった。
ある意味で彼女は正しかった。結局、最後に見つめていたのは僕のほうだったのだ。



今日の曲 - Tommy february6「bloomin'!
(春の曲シリーズその8)

 雪は風を孕んで回転する。渦を巻きながら地面に落ちていく。長い間まわりつづける幾千の螺旋の美しさを私は見守る。徐々に強まっていく雪が、原田君の姿を探して振り返った私の視界を白く暖かく染め上げている。やわらかな輪郭をした世界に陶然となって、そして前に向き直った私は、いつの間にか自分が雪に取り囲まれていることに気付く。それはとても静かな世界で、安心して身を寄せられるやわらかな光だ。
 雪が降っていることに先に気付いたのは原田君のほうだった。私はエスカレーターの前を行く原田君が着た赤いジャケットを見ていた。じっくりと目に焼き付けて、それから暖房に暖められて赤くなった自分の手を見た。手はすでに冷え始めていて、はーっと息を吐きかける。その息は白く色づくには温度が少し足りない。
 それまでの数時間、私たちは四方を分厚い壁に遮られたPCルームにいた。眠くなるくらいの温度に調整されたエアコンがずっと守っていてくれたから、そこから出てしまったらとても寒い。キャンパスの建物の中には空調が効いているけれど、それでもとても足りない。
 降ってきちゃったね、と原田君が言って、そこで私はようやく周りを見た。明かりの間引きされた玄関ホール、学生用掲示板、玄関の向こうの空。信じられないほど暗い。
 法学部の南側は大きなガラス張りになっていて、駆け寄った私は頭上から落ちてくる雪のかけらを見た。それは地面に落ちるたびに溶けて、地上を見てさえいれば景色はいつもとほとんど変わらない。ただ頼りなく明滅する外灯が雪の向こうに霞んでいた。
「天気予報では雪なんて言ってなかったよね。傘、持ってきてないや」
 原田君は横に立って空を見る。雪を見ていたはずの私はその横顔を見るかたちになる。その耳のかたち、窓にそっと寄せられた手、白くて細い指。思わず触れた窓はとても冷たくて、そのなめらかな指に息を吐きかけたくなる。多分、外はとても寒いのだ。こんなに薄いガラスでは防ぎきれない。
「私も傘なんて持ってきてないよ。でも、すぐにやみそうに見える。」頼りない雪のかけらがあてどなく舞いながら風に吹かれて地面へ向かう。私が息を深めに吸うと、冬の空気は肺をきりりと満たした。「ねぇ原田君、雪がやむまで、そこのミーティングスペースで休んでいかない? 法学のレポートを写させてもらったお礼。ジュースおごるから」
「ジュース? こっちだって過去問コピーさせてもらったのに」原田君はクリアファイルの中の言語学概論の束を見た。
「その分は、また別口でおごってもらうことにする。」もっと緊張するかと思ったけれど、出し始めてしまえば言葉は澱みなく流れ出る。余裕を装うことはできたと思う。
 思わず逸らしそうになる目をじっと抑えて、原田君のビターチョコレート色の瞳に向かって微笑みかける。それがきちんと微笑みに見えたかどうかは自信がないけれど、原田君も笑ってくれたから大丈夫なのだと思うことにする。
「うん。今度良かったらおごるよ」
「また今度いつか、時間があったらね」
 そのやわらかな言葉は、綿をたっぷりと詰めてふかふかに暖かいクッションみたいだ。どこまで行っても本質に辿り着けない代わりに、誰も傷付けない。
「じゃあおごってもらうよ」
 原田君がそう言って、私たちは玄関わきに砂浜みたいに広がるミーティングスペースへ向かう。白いテーブルと椅子。そのわきに並んでいる自動販売機のほのかな光も、たくさん集まると明るい。今日みたいな空の下では特に。夜道を歩く私たちを一直線に照らす月の光みたい。まだ生まれたばかりの、これから大きくなっていく月。
 原田君は、どれにしようかな、と、プラスチックのショウケースをとんとんとん、と叩く。細くて長い指だ。そのなめらかさは深海でひそやかに回転する波を思わせる。オーロラみたいに優しくゆらぐ波。
「川村さんは何を飲むの? もう決まった?」
 原田君が笑って、そのやさしい吐息に吹かれたオーロラはひときわ大きく揺らぐ。ぱちぱちと赤いパルスを爆ぜさせながら、マイクロ波が私を内側から灼く。眩しい。
「どうしようかな……久しぶりにレモネードでも飲もうかな」
 目の前にあったボタンへ手を伸ばしかける。ジュースのことなんて見えていなかったから。
「僕はこれにするよ」
 原田君が指差した自動販売機に百円玉を入れようとして、その時に一歩分だけ私は原田君に近づく。密度を高めた波に吹き飛びそうになりながらその細い指先を見た。
「コーンポタージュ?」
「うん。すごく甘くて暖まるよ」
 ごとんと音を立てる黄金色の缶は心臓の拍動のよう。取り出されるそれを眺める。
「コーンポタージュの缶、けっこう昔に飲んだけど、あんまりおいしかった記憶はないんだよね」
「昔から甘くて暖かいけど、最近のは昔よりも深みが増してる。おいしくなってるよ」
 流されてしまう自分が悔しくて叩いた減らず口をふんわりと包み込んで。原田君は取り出した缶をぶんぶんと振り回すようにかき混ぜる。かしゃかしゃという小さな音が聞こえる。ポタージュの中をコーンが泳ぐ甘やかな音。
 なんか騙されてる気がするけど、私もそれにしてみようかなぁ。そんな言い訳みたいな独り言でごまかして、私も原田君と同じコーンポタージュのボタンをぱちんと押す。
 ごとんと音を立てた缶は、温かいというよりも熱い。持っているだけで火傷しそう。慌てて指をかけたプルタブがかちんと音を立てて開いた瞬間、張り詰めていた冬の空気はほころんで私の温度を高める。ふわりと音を立てて吹き始めるやわらかな突風。私の中に吹き込んできて、肺が固まってしまったみたいに息をつめた私の中の密度をいたずらに高くしていく。
 黄金色のコーンポタージュと一緒に、世界が私の中へ流入する。私は世界へと溶け出していく。幾千の春が同時に芽吹いたようなエネルギー。
「……あたたかい」
 私がようやく絞り出した声に、原田君は満足そうに頷く。
「そりゃそうだよ。暖かさと甘さだけを持つもの。それがコーンポタージュの定義だから」
 さすが法学部、それっぽい言い方するなぁ。と笑いながら、安心した私は原田君に聞いてみる。ホットのキャラメルマキアートはコーンポタージュになるの? と。
 それは違うよ、と原田君は言った。
「ホットのキャラメルマキアートにはカフェインも入ってる。だからコーンポタージュとは別のものだよ」
 私には原田君の言っていることはよく分からなかったけれど、ただ、それでもそのコーンポタージュはキャラメルマキアートよりもずっと甘かった。
 ガラス張りの玄関の向こう、雪はまだやむ気配を見せない。少しずつ強まっているようにさえ見える。両手の中にあるコーンポタージュの暖かさを抱きしめながら、私はうっすらと白く色づき始めた地面を眺めている。
「雪って、暖かいのよね」
 子供の頃から、雪は暖かかった。灯油ストーブの匂い、テレビから流れる冬の歌、りんごがたっぷり入ったカレー。音も立てずにひそやかに降り積もっていく雪を窓越しに見て、じっとしていられなくて炬燵に潜り込んだ。息が詰まりそうに暖かい光。
 そんな私のたどたどしい話を聞いて、原田君は優しく笑った。
「冬の雨は冷たいけれど、確かに雪になれば暖かいね」
 自動販売機のコンプレッサーの音が止まる。最後の反響ひとつを残して、すべての音は積もっていく雪に吸い込まれていく。消えてしまった音は、今、地面に雪が降りるかしゃかしゃという音に埋まっていく。薄い透明な膜を通して、世界じゅうの感覚すべてがそれに収斂していた。
 私たちのほかには何もないみたいに思えた。ぎゅっと力を込めて握っているコーンポタージュの缶、高まっていく温度、ゆっくりと密度を高めていく時間。
「こうやって雪を見ていると、世界って勝手に回ってるんだなって思う。たまたま僕たちはここにいるけど、そんなこと関係ないんだって」
 原田君は金色の缶の上端を持って、そこを支点に缶をくるくると回す。ひときわ大きく深海のオーロラが揺らぐ。
 ねぇ、と打ち明け話みたいに、原田君はひそやかに口を開いた。
「コーンポタージュのコーンを全部残さずに食べる方法、知ってる?」
 言われて思い出した。何も考えずに飲んでいては、缶入りコーンポタージュを残さずすべて飲みきることはできない。コーンは、缶の底に張り付いて出てこなくなってしまうのだ。
「出てこなくなったら、缶を後ろからぽこぽこと叩くしかないんじゃないの?」
「やってみたら分かるけれど、缶に一度貼り付いちゃったらもう出てこないよ」
 原田君は笑った。出てくるにしたって、そんなことをやりたいだなんて思わない。
「出てこなくなる前に、まだスープが残っている間に、こうやって飲むんだよ」
 原田君の手の中の缶はゆっくりと傾いて、ゆらりゆらりと円を描いた。雪の中、わずかな光をきらりきらりと乱反射させながら。それはまるで、この世界の在り方を規定する砂時計が落としていく時間の粒のようだった。時間が変転して、世界はぱらぱらと産み落とされていく。
 本当にそれでうまくいくのかな、という減らず口をまたひとつ叩いて、私も原田君に倣って金色の缶をくるくると回す。光がこぼれ落ちてくるのが美しくて、私は天井のライトにその光を透かす。ぱらぱらと降り積もる光、そしてその先の雪の向こうに空は見えなかった。ただ落ちてくる雪が羽根みたいだった。空気をいっぱいに孕んでひらひらと、こうやって見ると、雪は想像していたよりもずっと弱い。風がひと吹きすればどこまでも飛んで行ってしまいそうで、こんなものが地面に積もって世界を変えてしまうなんて信じ難かった。それでも現実に、雪は風景を白く塗り替え続けている。
 ポタージュスープの中のコーンはくるくると遠心力に従いながら、引力を受けて落ちていく。コーンのひと粒ひと粒が描く螺旋が、今の私には見えている。泳いでいる。いくつもぶつかって絡み合いながら。
「雪、やまないね」
 私が言うと、原田君は頷いた。
「うっすら地面が白くなったと思って見ていたら、いつの間にかアスファルトが全部見えなくなっちゃった」
 世界が変わっていく姿が私には見えた。
 コーンポタージュを飲み終えて、私は片目をつぶって中の様子を見る。
「確かに、こうやって飲むと一粒も残らないね」
「うん。缶に遠心力をかけ続ければ、絶対に残らない。こんなに甘くて暖かいのに、残すなんて勿体ないから」
 大きなミトンをはめた女の子がふたり、窓の外を歩いていく。傘も差さずに、おそろいの赤い長靴を地面に突き立てながら。近くの小学生だろうか。くるくると二人、踊るように雪をつかもうとしている。くっきりと残っていく足跡。多分、あの二人は、ミトンとマフラーにくるまれてとても暖かい。
 螺旋が回っているのが分かる。
 雪原の足跡が消えていくまでの間、私は浜辺で金色の海の中を眺めているように思う。それは、どこまでも広がった果てしない海だ。その広さにくらくらする。でもまさに私のいるここが、無限を形づくっているのだと感じていた。
「なんだか、大事なことがひとつ分かった気がする」
 私は深海に向かって小石を投げいれた。たゆたうオーロラがどう擾乱するのかが見たかった。そのあまりにも小さな石は頼りない音を立てて、笹船さえ揺れるか分からないくらいの波を打った。
 原田君は立ち上がると、息をつめてオーロラを見る私に近づく。そしてそのまま、私の手の中の缶を鮮やかに抜き取った。缶はとても小さいから、その瞬間に熱を持った手と手がはっきりとぶつかる。
 眩しい。
 それは大して強い光じゃない。でも、確かにその一瞬、私はオーロラの鱗片にふれた。不意に湧き上がった光に目を細めた。
二人分の缶をまとめてゴミ箱に捨てて、原田君は言った。
「雪が降るとこんなに景色が変わっちゃうこと、忘れてた」
 ここはどこなんだろう。暖かくて見慣れない場所。ちょっと目を離した隙に、私の目の前の世界はすっかり変わってしまった。さっきまで見えていたつつじの植え込みや、ベンチや、構内案内板や。そういうものはどこへ消えてしまったのだろう。
 自動販売機のコンプレッサーが、再び動き出す。ぶおん、ぶおん、と、等間隔に打つ。それは私が知らないところでひとりでに動き出した歯車の音だ。私はその音を呆然と聞いている。原田君が触れた右手の甲だけが、とても熱い。
「なんか、ずっとこうだったみたいに思う。」
 私はそんなふうに、そっと息をつく。今となっては、雪が降り積もったこの景色こそ、世界の正しい姿みたいに見える。もう、ベンチの色も、場所も、正確には思い出せない。
「さっきの話だけど」
 え、いつの話だっけ。そう聞き返す私に、
「言語学概論のコピーのお礼」
原田君は答える。
「うん」
「今から返そうかな。どうせ、こんな天気じゃ、しばらく電車は動けないよ」
「――うん」
 私は頷く。熱くなっている顔を見られるのが嫌で。
 多分この雪はもうしばらく続くのだ、そう思った。雪はいよいよ強くなって、景色はその間にも変わり続けていた。

NN.4-2からの続き)


 玄関は暗かったが、カズヒサが「多分、開いてるのはここだ」と言いながらドアを押すと、音もなく開いた。
 下駄箱はひんやりとしていた。まだ暗闇には目が慣れていないけれど、毎日通っている玄関だ。自分の下駄箱の位置くらいは大体分かる。上履きくらいは履いていこうかな、と足を踏み出すと、何かとんでもなく硬くて大きいものに肩からぶつかった。何だ?こんなところに新しく下駄箱が追加されたのか? しかし下駄箱にしては大きすぎるし硬すぎる。まるで眼前にそびえる活火山のような。不思議に思い目を凝らすと、
「しまった! 谷山だ!」カズヒサが後方で指さして叫んだ。山の上のほうで振り向いた目がぎらりと光った。
 その噴火しマグマを流し続ける火山みたいな影はこちらに気付くと、「ぬわーんだ貴様らはーぁぁ!」と両手を振りまわして暴れる。
 捕まったら食われる。そう思った。これは鬼でも悪魔でもない。怒り狂った野生の獣だ。その毛深い腕の一振り一振りが二人の血を肉を、命を欲しているのだ。そうか。こんな巨大で獰猛な獣との戦い、これこそが誇り高き兵士の戦いなのか。
 谷山の腕が、拳が巻き起こし続ける風圧に吹き飛ばされそうになりながらもタカシは耐える。そう。この先に、望んだ未来が待っているのだ。
「タカシぃぃ俺はここで食い止める先に行けえぇぇぇ」突然カズヒサの悲痛な叫び声が聞こえて振り向くと、軍艦の主砲のように太く巨大な二本の腕がカズヒサの襟元と頭に絡みついていた。そのまま闇の中へ引きずり込まれていくように見えた。
 タカシは頷いて走りだした。ようにカズヒサには見えた。タカシ自身は頷いてるのか震えているのか腰が抜けているのか分からなかった。とにかく足を前へ前へと運んだ。
 谷山の咆哮が背中に向けて襲いかかってきた。もはやそれは意味のある言葉には聞こえなかった。ただ魂を直接揺さぶる音圧だった。それは「待てやコラ待たないと食い殺す」だったのかもしれないし、「さぁ一緒に地獄のダンスを踊ろうぜカズヒサちゃん」だったのかもしれない。いずれにしても、下駄箱を突っ切って左手に折れ、保健室と視聴覚室、理科室を駆け抜けて後ろ手に放送室のドアを閉め、鍵をかけるまでに谷山は追いついてはこなかった。
 タカシはふぅと息を吐いた。谷山が本気を出せば放送室のドアを蹴破るくらい造作もないだろうが、まずは一安心だ。
 しかし電気がついてなくて暗い。まずは電気をつけないと。電気のスイッチはどこにあるんだ? いや、そもそもカーテンが閉まってない。窓も閉まってないから風吹いてくるし。なんで外はあんなに電灯もキャンプファイアーも付き放題ついているのにこんなに暗いんだ?
 そしてタカシが窓のほうをよく見ると、何か大きいものがゆらりと動いた。谷山のような威圧的な大きさじゃなくて、もっとこう、冷え冷えとした何か。死神の鎌がゆらりと白い光を放つ。
 何かいる?
 まだ肝試しは始まってないじゃないかいやそもそもなんで放送室に幽霊がいるんだよ出るなら理科室とか保健室にしてくれよ夜はまだ早いよお前らの時間じゃないよ、混乱するタカシはその影が横にふらりと動くのを見た。遮られていたキャンプファイアーの光が部屋に差しこむ。そして、
「なんでアンタがここにいるのよ」
 頭上から聞こえてくるが、それは地の底から響いてくるような絶望的に冷え冷えとした声だった。そこで気付いた。そこにいたのはイガワだった。ある意味幽霊よりも怖かった。
「や、っていうかあれ、なんでイガワがここにいるんだよ」
 確かに考えてみればおかしかった。なぜタカシの相手であったイガワはタカシを探して引っ張っていかなかったのか。なぜ、相手がいないと一番わめいて叫んでぶち壊しそうなイガワが何も言わず、フォークダンスはつつがなく始まったのか。
「アンタには分かんないと思うけど、私にはやることがあんの」イガワはぶら下げた右手に携帯電話を持っていた。それをずっと眺めている。
 なんだよ、いつもあれやれこれやれうるさいのに自分はサボりなのか。ここはもしかしたら正義の味方っぽく言ってみたらイガワに勝てるかもしれない。タカシはそう思った。
「いつまで経ってもフォークの相手が現れなかったから、おまえを連れ戻しに来たんだ、イガワよ」
 びしっ、という効果音が付いてほしいくらいに決まった。とタカシは思う。人差し指はイガワのでっかい鼻の先に。
「はぁ?アンタが?本気で言ってんの?」
 イガワは心底呆れた、というような声を出す。
「当たり前だろ、ちゃんとやれって言ったのはお前だ」
 イガワは驚いたような顔をして、そして、はぁ、とため息をつく。
「分かってるわよ、でも、これは仕方ないの。さっきも言ったけど、私には――」
 イガワが何か言いかけたところで、突然携帯電話の着信音が鳴る。遊戯王の熱い主題歌だ。どうやらマナーモードにするのを忘れていたらしい。
 来た!
 もはやイガワなんかに構っている暇はない。ジロリと睨みつけるイガワを見ないふりして電話に出る。「…もしもし」
「どうもこんにちはYAZAWAだよー。ラジオ聞いてたかい?今君の声が全国に届いてるんだよ。まさか裏番組の野球中継なんて聞いてなかっただろうね」
「ごめんなさい、ちょっと訳あって聞ける状況にいませんでした」
「何どうしたの、まさかテレビ見てたなんて言わないよね地デジ世代。YAZAWAはアナログであと十年は持たせようとしてたけど、オリンピック見たくて買っちゃったよ54インチのプラズマ」
「いや、テレビもここにはないんです」
「そうか、なら仕方ないな許そうか。ところで君はカオスソルジャー君でいいんだっけ」
「はい、カオスソルジャーです」
 じっと成り行きを見つめていたイガワは、カオスソルジャーの名前を聞くとあからさまにため息をついた。完全に興味を失ったように携帯を眺めている。でももうそんなことはどうでもいいのだ。
「そうか良かった。ここまで喋って間違い電話だったらどうしようかと思ってた。カオスソルジャー君はさっきまで何をしていたんだい?」
 なんと答えるべきか少し悩んだ。やはりキャンプをサボっていることは全国放送に乗せてはいけない。
「……カレー食べてました」
「カレーか!いいね。僕も好きだよ。インドカレー、タイカレー、日本のカレーと欧風カレー、何が来てもご飯3杯は食べちゃうよ。――よし、それじゃ、少し待っててもらっていいかな、君の対戦相手に電話をつなぐから」
「はい」
 相手はどんな人なんだろう。全国にこの放送が流れている以上、負けたらカッコ悪すぎる。勝たなければいけない。でも、全国にこれが流れてて、また別の誰かが聞いていて、遠くの誰かと、一生会うこともないほど離れた相手と一本の線でつながっているなんてすごいことだ。
 そんなタカシの感慨を邪魔するように、イガワがどこからか掛かってきた電話に出る。イガワはマナーモードにしていたらしい。電話を待っていたのか。でもこんなところで隠れるようにして出なくても、後からかけなおせばいいじゃないか、と思う。
「こんにちはYAZAWAだよー。お名前教えてくれないか?」電話の向こうのYAZAWAも対戦相手と繋がったらしく、しゃべり始める。携帯の向こうで会話が聞こえる。
『はい、イガワ・マリです』
 携帯の向こうの対戦相手の声と、目の前の電話の声が完全に重なった。
「お前かよ!」
『えっ』今度は二つのイガワの声と、さらにYAZAWAの声が重なった。
「どうしたカオスソルジャー君。なんか決定的にイヤなことでもあったのかい」
「いやごめんなさい、何でもないです」困惑気味のYAZAWAに謝るが、イガワのこちらを睨みつける視線は、一瞬驚きに変わってから、さらに強い何百もの針みたいな視線に変わった。
「ごめんねイガワマリさん、カオスソルジャー君はなんか悩み多き年頃みたいで」
「そんなもんだと思いますよ。私の近くにいる男子なんてもう本当にひどくて。どうせたいしたこと考えてないのに声ばっかり大きくて」イガワは派手にため息をついた。
「資料によるとカオスソルジャー君と同い年みたいだけど……本当に君らくらいの時って女子のほうがずーっと大人だよね」
「そうですよね、本当にいつも迷惑で」
「ははは、申し訳ない。ちなみにイガワマリさんはさっきまで何をしていたの?」
「キャンプファイアー見てました。もう本当にきれいで感動でした」イガワは窓の外にちらりと目をやる。
「キャンプか、いいね。もしかしてカレー食べた?」
「はい。とってもおいしかった」
「いいね。対戦相手のカオスソルジャー君もカレー食べたみたいで。今日は僕も終わったらココイチかな。パリパリチキンこそが至高のトッピングさ」
 ギロリとこちらを睨み続けるイガワにも気付かず、YAZAWAはしゃべり続ける。
「さて、じゃあそろそろ本題に行こうかな。タームキーパーさんと構成作家さんがさっきから腕をぐるぐるぐるぐる回してる。ムダ話ばかりでタイムスケジュールがどんどん遅れてるんだろうね。クーラー効いててこんなに涼しいのに二人とも汗がダラダラさ。なんかかわいそうになってきたからそろそろやろうぜ二人とも。準備はいいかい?」
『はい』
 お互いがお互いを睨み続けている。
「じゃあ先攻を決めようか。じゃんけんだ。いいかい、最初はグーだよ。勝ったほうが先攻になるから頑張ってね。オーケー?いくよ、せーの、最初はグー、じゃんけん……」
『ほいっ』
 タカシはグーでイガワはパーだった。
「やった、勝った」イガワは手を叩いて喜んでいる。右手を胸の前でグッと、ガッツポーズまで決めた。どんだけ負けたくないんだよ。しかし場を取り仕切るべきYAZAWAは何故か困惑していた。
「えーと、出した手を口に出してもらわないと僕には何が起こったか分からないんだけど……イガワさんが勝ったの? じゃあカオスソルジャー君の負けでいいのかな?」
「はい、負けました」男は潔くなくてはならない。
「そうか、なんだか僕だけが取り残されてしまうような感覚。僕には何も見えない何も聞かせてくれない。僕の身体が昔より大人になったからなのか? 二人とも心が通じ合いすぎだよ。これもカレーの力なのかな。僕ももう一刻も早くココイチに駆け込むべきなのか? 行ってきていいか? しかしどうであれ勝負はついたみたいだ。もしかしてみんなには見えているのか? まぁ仕方ない。イガワさん準備はいいかい?」
「はい、いいです」イガワが傍らのコンポの再生ボタンを押す。程なくしてギターのようなベースのような単音が聞こえてくる。
「さぁ、イガワさんの歌う曲はお馴染みStand by meだ。いい曲だねぇYAZAWAもなんだか泣いちゃいそうだよ……さあ、じゃあ行っちゃって」
When The night……has come……
 何語だよ!と思いながら聞き始めたが、次の瞬間、タカシはその場から動くことができなくなった。まるで雷に打たれたみたいだった。それは世界が転換したみたいな衝撃だった。歌が始まるまでは、隙あらば脛に蹴りでもかましてやろうと思っていたのだが、そんなことは歌が始まった後ではできるはずもなかった。もちろん歌それ自身もだが、歌っているイガワのその姿もタカシに刃向かう気を失わせるに十分なほどの――今までに見たこともない顔だった。
 イガワ、こいつ、今まで気付かなかったけれど…………
Oh darling, darling, stand……
 歌が佳境に入ると同時に部屋の気圧が上がった。鼓動が速くなるのが分かる。
 気付かなかったけれど…………口が異常にでかい。声も異常にでかい。何か機嫌を損ねたらそのまま丸呑みにされそうなでかさ。怖い。そしてそんな表情で歌いあげられるソウルフルなフォルティッシモは、もはや何かの儀式の始まりだった。遠くに見えるキャンプファイアーとそれを囲んで踊る人々の群れ。タカシは何故か、自分がその真ん中に張り付けられている様子を想像した。
 生贄だ。
 張り付けられた十字架に火がだんだんと回ってきている。ロープがぱちぱちと音を立てている。
 タカシが震えあがっている間に歌は終わっていた。イガワはディスクのイジェクトボタンを押す。
「すごい声量だねイガワさんすごい。ヘッドホンのボリュームを四分の一にしても普通の音量で聞こえたよすごい。演劇とか合唱とか何かやってるの?」
「いえ、ただのしがない学級委員です」
 ほめてるんだか何だかわからないYAZAWAの言葉に、イガワは顔を真っ赤にして返答する。
「これは強敵だよカオスソルジャー君。勝てそうかい?」
「負ける気がしません。」未だにコンポの前に陣取っているイガワにそこをどいてくれとジェスチャーをする。一瞬イガワはむっとした表情を見せるが、ため息をついた後にゆっくりとどいてくれる。
「いいね。やっぱり男はそうでなくっちゃ。とにかく相手がどんなでも、当たって砕けろだ」YAZAWAの声を聞き流しながら、CDをコンポに入れる。相手がこんなんだったら、自分だけ砕けて終わりだろうな。質量と体積が違いすぎる。
「じゃあ準備はいいかい?」
「はい、いいです」再生ボタンを押す。
 来た来た来た。盛り上がるこのイントロだよやっぱり。あんなギターだけの悪の儀式みたいな曲とは違うんだ。
「さぁ、カオスソルジャー君の歌う曲はなんとThrillerだ。もちろんマイケルジャクソンのあれ。YAZAWAもよくカラオケに行くけど、これを歌ってる人見たことないぞ。さぁやってくれるのか。頑張れカオスソルジャー君」
 歌い始めが肝心だ行くぜ。タカシは大きく息を吸い込んだ。夏の風で体中を満たすように。「いつくろうずざみーぁぅ、さんてんいんこざふぁってんいんこざとーふぁぅ」
 行けるこれは行ける。これなら勝てる。あまりにも調子がよすぎる。今ならばムーンウォークでネバーランドに辿り着ける。……そういえばイガワのせいでごたごたしていてひとつ忘れてた。校内放送のマイクをオンにしなければ。
 左手にあるマイクのスイッチをONに変えようと手を伸ばす。しかし、スイッチまであと数センチのところで手を払われてしまう。誰だ?と思ったがこんな邪魔をするのはイガワしかいない。イガワを睨みつけようとすると、イガワがそれ以上の剣幕でこちらを睨んでいる。声には出さないで口だけでしゃべっている。(何やってんのバカ)と。
 多分、タカシの声だけが校内に響き渡ることに嫉妬しているのだ。自分の歌も流して目立ちたかったんだ。イガワはそういう奴なんだ。
 しかし残念ながら、イガワがどう思おうとこれは崇高な作戦なのだ。しかも仲間の犠牲の上に成立している。カズヒサはダークサイドに堕ちてしまった。ある意味ではユキオもか。それに報いるためにも、なんとかして成功させなければいけない。あんなオクラホマミキサーは終わったのだ。この歌声を戸田さんに届かせなければいけない。
 そんな思いを載せながら、歌は佳境へと入っていく。
「げっさんべスリラーあぁぁ、スリラーぁなぁいっ!」あと少し。あと少しで届く。「ふぁいてぃんごーやないっ、でぃさぁ、げなっっ、うぇなあぁっっとぅなーぁぁぁいっ!!!…………アオ!」
 サビを堂々と歌いあげた瞬間に脛に激痛が走って思わず叫んだ。視界の端に、ローキックでターゲットを打ち抜いたイガワのスカートが思いっきりはためくのが見えた。
 あと少しの所でスイッチには手が届かなかった。
 まだまだ歌い続けるつもりだったが、完全にぶち切れたイガワの手によってスリラーは強制終了された。ちょ、待って、と口を開きかけたところに、YAZAWAの豪快な笑い声が響いた。
「はっはっは、すごいよカオスソルジャー君すごかった。特に最後のシャウトは本家マイケルも真っ青の豪快なシャウトだったよ。真っ青?真っ青……まぁいいや。とにかく良かった。シャウトが良かったすごかった」
 もはや脛が痛くてそれどころではない。とにかく勝負。勝負はどっちが勝ったんだ。
「この勝負は、さぁ、どっちを勝ちにしようか。どっちが勝ちでも負けでもいい、惜しくないいい勝負をしていた。けれどもやっぱり勝者は……イガワさんかな。僕にヘッドホンの音量を下げさせた初めてのリスナーだよおめでとう」
 マジか。思わずへたりこんでしまう。「カオスソルジャー君はシャウトをもっともっと磨いてきてくれ。次の大会でも待ってるよ。じゃあ残念だけどカオスソルジャー君は、さよならだ」
 電話がぷつりと切れる。後には静寂だけが残った。かすかに聞こえるオクラホマミキサーは、なにかもう別の次元の出来事のようだった。時折聞こえてくるイガワの電話の受け答えの声だけが現実味を帯びた世界だった。
 へたり込んだまま、イガワの姿を見上げる。遠くで弾け飛ぶキャンプファイアーに照らされて、イガワの頬は紅潮していた。どこか遠くの世界からかすかに鳴り響いているオクラホマミキサー。
 あぁ。と、タカシは気付いた。気付いてしまった。いつもは気にしていなかったイガワが、こうやって見ると、こんな二人だけで隔絶された世界でじっと見ていると……本当に――本当に、でかかった。あんなののローキックをまともに食らって、骨が折れていないはずがない。今更になって足が痛みだす。
 外の世界ではフォークダンスがまだ終わらない。こんな遠くからでは戸田さんの姿も見えない。
 いったい、この二人だけの隔絶された世界から、どんな地獄へと連れて行かれるのだろう。イガワの顔色をそっと覗き見ると、冷ややかな視線と目が合う。
 儀式はまだ終わっていないのかもしれない。タカシは張り付けられて、火を囲んだ儀式の盛り上がりはゆっくりとクレッシェンドしていく。


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