雪は風を孕んで回転する。渦を巻きながら地面に落ちていく。長い間まわりつづける幾千の螺旋の美しさを私は見守る。徐々に強まっていく雪が、原田君の姿を探して振り返った私の視界を白く暖かく染め上げている。やわらかな輪郭をした世界に陶然となって、そして前に向き直った私は、いつの間にか自分が雪に取り囲まれていることに気付く。それはとても静かな世界で、安心して身を寄せられるやわらかな光だ。
雪が降っていることに先に気付いたのは原田君のほうだった。私はエスカレーターの前を行く原田君が着た赤いジャケットを見ていた。じっくりと目に焼き付けて、それから暖房に暖められて赤くなった自分の手を見た。手はすでに冷え始めていて、はーっと息を吐きかける。その息は白く色づくには温度が少し足りない。
それまでの数時間、私たちは四方を分厚い壁に遮られたPCルームにいた。眠くなるくらいの温度に調整されたエアコンがずっと守っていてくれたから、そこから出てしまったらとても寒い。キャンパスの建物の中には空調が効いているけれど、それでもとても足りない。
降ってきちゃったね、と原田君が言って、そこで私はようやく周りを見た。明かりの間引きされた玄関ホール、学生用掲示板、玄関の向こうの空。信じられないほど暗い。
法学部の南側は大きなガラス張りになっていて、駆け寄った私は頭上から落ちてくる雪のかけらを見た。それは地面に落ちるたびに溶けて、地上を見てさえいれば景色はいつもとほとんど変わらない。ただ頼りなく明滅する外灯が雪の向こうに霞んでいた。
「天気予報では雪なんて言ってなかったよね。傘、持ってきてないや」
原田君は横に立って空を見る。雪を見ていたはずの私はその横顔を見るかたちになる。その耳のかたち、窓にそっと寄せられた手、白くて細い指。思わず触れた窓はとても冷たくて、そのなめらかな指に息を吐きかけたくなる。多分、外はとても寒いのだ。こんなに薄いガラスでは防ぎきれない。
「私も傘なんて持ってきてないよ。でも、すぐにやみそうに見える。」頼りない雪のかけらがあてどなく舞いながら風に吹かれて地面へ向かう。私が息を深めに吸うと、冬の空気は肺をきりりと満たした。「ねぇ原田君、雪がやむまで、そこのミーティングスペースで休んでいかない? 法学のレポートを写させてもらったお礼。ジュースおごるから」
「ジュース? こっちだって過去問コピーさせてもらったのに」原田君はクリアファイルの中の言語学概論の束を見た。
「その分は、また別口でおごってもらうことにする。」もっと緊張するかと思ったけれど、出し始めてしまえば言葉は澱みなく流れ出る。余裕を装うことはできたと思う。
思わず逸らしそうになる目をじっと抑えて、原田君のビターチョコレート色の瞳に向かって微笑みかける。それがきちんと微笑みに見えたかどうかは自信がないけれど、原田君も笑ってくれたから大丈夫なのだと思うことにする。
「うん。今度良かったらおごるよ」
「また今度いつか、時間があったらね」
そのやわらかな言葉は、綿をたっぷりと詰めてふかふかに暖かいクッションみたいだ。どこまで行っても本質に辿り着けない代わりに、誰も傷付けない。
「じゃあおごってもらうよ」
原田君がそう言って、私たちは玄関わきに砂浜みたいに広がるミーティングスペースへ向かう。白いテーブルと椅子。そのわきに並んでいる自動販売機のほのかな光も、たくさん集まると明るい。今日みたいな空の下では特に。夜道を歩く私たちを一直線に照らす月の光みたい。まだ生まれたばかりの、これから大きくなっていく月。
原田君は、どれにしようかな、と、プラスチックのショウケースをとんとんとん、と叩く。細くて長い指だ。そのなめらかさは深海でひそやかに回転する波を思わせる。オーロラみたいに優しくゆらぐ波。
「川村さんは何を飲むの? もう決まった?」
原田君が笑って、そのやさしい吐息に吹かれたオーロラはひときわ大きく揺らぐ。ぱちぱちと赤いパルスを爆ぜさせながら、マイクロ波が私を内側から灼く。眩しい。
「どうしようかな……久しぶりにレモネードでも飲もうかな」
目の前にあったボタンへ手を伸ばしかける。ジュースのことなんて見えていなかったから。
「僕はこれにするよ」
原田君が指差した自動販売機に百円玉を入れようとして、その時に一歩分だけ私は原田君に近づく。密度を高めた波に吹き飛びそうになりながらその細い指先を見た。
「コーンポタージュ?」
「うん。すごく甘くて暖まるよ」
ごとんと音を立てる黄金色の缶は心臓の拍動のよう。取り出されるそれを眺める。
「コーンポタージュの缶、けっこう昔に飲んだけど、あんまりおいしかった記憶はないんだよね」
「昔から甘くて暖かいけど、最近のは昔よりも深みが増してる。おいしくなってるよ」
流されてしまう自分が悔しくて叩いた減らず口をふんわりと包み込んで。原田君は取り出した缶をぶんぶんと振り回すようにかき混ぜる。かしゃかしゃという小さな音が聞こえる。ポタージュの中をコーンが泳ぐ甘やかな音。
なんか騙されてる気がするけど、私もそれにしてみようかなぁ。そんな言い訳みたいな独り言でごまかして、私も原田君と同じコーンポタージュのボタンをぱちんと押す。
ごとんと音を立てた缶は、温かいというよりも熱い。持っているだけで火傷しそう。慌てて指をかけたプルタブがかちんと音を立てて開いた瞬間、張り詰めていた冬の空気はほころんで私の温度を高める。ふわりと音を立てて吹き始めるやわらかな突風。私の中に吹き込んできて、肺が固まってしまったみたいに息をつめた私の中の密度をいたずらに高くしていく。
黄金色のコーンポタージュと一緒に、世界が私の中へ流入する。私は世界へと溶け出していく。幾千の春が同時に芽吹いたようなエネルギー。
「……あたたかい」
私がようやく絞り出した声に、原田君は満足そうに頷く。
「そりゃそうだよ。暖かさと甘さだけを持つもの。それがコーンポタージュの定義だから」
さすが法学部、それっぽい言い方するなぁ。と笑いながら、安心した私は原田君に聞いてみる。ホットのキャラメルマキアートはコーンポタージュになるの? と。
それは違うよ、と原田君は言った。
「ホットのキャラメルマキアートにはカフェインも入ってる。だからコーンポタージュとは別のものだよ」
私には原田君の言っていることはよく分からなかったけれど、ただ、それでもそのコーンポタージュはキャラメルマキアートよりもずっと甘かった。
ガラス張りの玄関の向こう、雪はまだやむ気配を見せない。少しずつ強まっているようにさえ見える。両手の中にあるコーンポタージュの暖かさを抱きしめながら、私はうっすらと白く色づき始めた地面を眺めている。
「雪って、暖かいのよね」
子供の頃から、雪は暖かかった。灯油ストーブの匂い、テレビから流れる冬の歌、りんごがたっぷり入ったカレー。音も立てずにひそやかに降り積もっていく雪を窓越しに見て、じっとしていられなくて炬燵に潜り込んだ。息が詰まりそうに暖かい光。
そんな私のたどたどしい話を聞いて、原田君は優しく笑った。
「冬の雨は冷たいけれど、確かに雪になれば暖かいね」
自動販売機のコンプレッサーの音が止まる。最後の反響ひとつを残して、すべての音は積もっていく雪に吸い込まれていく。消えてしまった音は、今、地面に雪が降りるかしゃかしゃという音に埋まっていく。薄い透明な膜を通して、世界じゅうの感覚すべてがそれに収斂していた。
私たちのほかには何もないみたいに思えた。ぎゅっと力を込めて握っているコーンポタージュの缶、高まっていく温度、ゆっくりと密度を高めていく時間。
「こうやって雪を見ていると、世界って勝手に回ってるんだなって思う。たまたま僕たちはここにいるけど、そんなこと関係ないんだって」
原田君は金色の缶の上端を持って、そこを支点に缶をくるくると回す。ひときわ大きく深海のオーロラが揺らぐ。
ねぇ、と打ち明け話みたいに、原田君はひそやかに口を開いた。
「コーンポタージュのコーンを全部残さずに食べる方法、知ってる?」
言われて思い出した。何も考えずに飲んでいては、缶入りコーンポタージュを残さずすべて飲みきることはできない。コーンは、缶の底に張り付いて出てこなくなってしまうのだ。
「出てこなくなったら、缶を後ろからぽこぽこと叩くしかないんじゃないの?」
「やってみたら分かるけれど、缶に一度貼り付いちゃったらもう出てこないよ」
原田君は笑った。出てくるにしたって、そんなことをやりたいだなんて思わない。
「出てこなくなる前に、まだスープが残っている間に、こうやって飲むんだよ」
原田君の手の中の缶はゆっくりと傾いて、ゆらりゆらりと円を描いた。雪の中、わずかな光をきらりきらりと乱反射させながら。それはまるで、この世界の在り方を規定する砂時計が落としていく時間の粒のようだった。時間が変転して、世界はぱらぱらと産み落とされていく。
本当にそれでうまくいくのかな、という減らず口をまたひとつ叩いて、私も原田君に倣って金色の缶をくるくると回す。光がこぼれ落ちてくるのが美しくて、私は天井のライトにその光を透かす。ぱらぱらと降り積もる光、そしてその先の雪の向こうに空は見えなかった。ただ落ちてくる雪が羽根みたいだった。空気をいっぱいに孕んでひらひらと、こうやって見ると、雪は想像していたよりもずっと弱い。風がひと吹きすればどこまでも飛んで行ってしまいそうで、こんなものが地面に積もって世界を変えてしまうなんて信じ難かった。それでも現実に、雪は風景を白く塗り替え続けている。
ポタージュスープの中のコーンはくるくると遠心力に従いながら、引力を受けて落ちていく。コーンのひと粒ひと粒が描く螺旋が、今の私には見えている。泳いでいる。いくつもぶつかって絡み合いながら。
「雪、やまないね」
私が言うと、原田君は頷いた。
「うっすら地面が白くなったと思って見ていたら、いつの間にかアスファルトが全部見えなくなっちゃった」
世界が変わっていく姿が私には見えた。
コーンポタージュを飲み終えて、私は片目をつぶって中の様子を見る。
「確かに、こうやって飲むと一粒も残らないね」
「うん。缶に遠心力をかけ続ければ、絶対に残らない。こんなに甘くて暖かいのに、残すなんて勿体ないから」
大きなミトンをはめた女の子がふたり、窓の外を歩いていく。傘も差さずに、おそろいの赤い長靴を地面に突き立てながら。近くの小学生だろうか。くるくると二人、踊るように雪をつかもうとしている。くっきりと残っていく足跡。多分、あの二人は、ミトンとマフラーにくるまれてとても暖かい。
螺旋が回っているのが分かる。
雪原の足跡が消えていくまでの間、私は浜辺で金色の海の中を眺めているように思う。それは、どこまでも広がった果てしない海だ。その広さにくらくらする。でもまさに私のいるここが、無限を形づくっているのだと感じていた。
「なんだか、大事なことがひとつ分かった気がする」
私は深海に向かって小石を投げいれた。たゆたうオーロラがどう擾乱するのかが見たかった。そのあまりにも小さな石は頼りない音を立てて、笹船さえ揺れるか分からないくらいの波を打った。
原田君は立ち上がると、息をつめてオーロラを見る私に近づく。そしてそのまま、私の手の中の缶を鮮やかに抜き取った。缶はとても小さいから、その瞬間に熱を持った手と手がはっきりとぶつかる。
眩しい。
それは大して強い光じゃない。でも、確かにその一瞬、私はオーロラの鱗片にふれた。不意に湧き上がった光に目を細めた。
二人分の缶をまとめてゴミ箱に捨てて、原田君は言った。
「雪が降るとこんなに景色が変わっちゃうこと、忘れてた」
ここはどこなんだろう。暖かくて見慣れない場所。ちょっと目を離した隙に、私の目の前の世界はすっかり変わってしまった。さっきまで見えていたつつじの植え込みや、ベンチや、構内案内板や。そういうものはどこへ消えてしまったのだろう。
自動販売機のコンプレッサーが、再び動き出す。ぶおん、ぶおん、と、等間隔に打つ。それは私が知らないところでひとりでに動き出した歯車の音だ。私はその音を呆然と聞いている。原田君が触れた右手の甲だけが、とても熱い。
「なんか、ずっとこうだったみたいに思う。」
私はそんなふうに、そっと息をつく。今となっては、雪が降り積もったこの景色こそ、世界の正しい姿みたいに見える。もう、ベンチの色も、場所も、正確には思い出せない。
「さっきの話だけど」
え、いつの話だっけ。そう聞き返す私に、
「言語学概論のコピーのお礼」
原田君は答える。
「うん」
「今から返そうかな。どうせ、こんな天気じゃ、しばらく電車は動けないよ」
「――うん」
私は頷く。熱くなっている顔を見られるのが嫌で。
多分この雪はもうしばらく続くのだ、そう思った。雪はいよいよ強くなって、景色はその間にも変わり続けていた。
雪が降っていることに先に気付いたのは原田君のほうだった。私はエスカレーターの前を行く原田君が着た赤いジャケットを見ていた。じっくりと目に焼き付けて、それから暖房に暖められて赤くなった自分の手を見た。手はすでに冷え始めていて、はーっと息を吐きかける。その息は白く色づくには温度が少し足りない。
それまでの数時間、私たちは四方を分厚い壁に遮られたPCルームにいた。眠くなるくらいの温度に調整されたエアコンがずっと守っていてくれたから、そこから出てしまったらとても寒い。キャンパスの建物の中には空調が効いているけれど、それでもとても足りない。
降ってきちゃったね、と原田君が言って、そこで私はようやく周りを見た。明かりの間引きされた玄関ホール、学生用掲示板、玄関の向こうの空。信じられないほど暗い。
法学部の南側は大きなガラス張りになっていて、駆け寄った私は頭上から落ちてくる雪のかけらを見た。それは地面に落ちるたびに溶けて、地上を見てさえいれば景色はいつもとほとんど変わらない。ただ頼りなく明滅する外灯が雪の向こうに霞んでいた。
「天気予報では雪なんて言ってなかったよね。傘、持ってきてないや」
原田君は横に立って空を見る。雪を見ていたはずの私はその横顔を見るかたちになる。その耳のかたち、窓にそっと寄せられた手、白くて細い指。思わず触れた窓はとても冷たくて、そのなめらかな指に息を吐きかけたくなる。多分、外はとても寒いのだ。こんなに薄いガラスでは防ぎきれない。
「私も傘なんて持ってきてないよ。でも、すぐにやみそうに見える。」頼りない雪のかけらがあてどなく舞いながら風に吹かれて地面へ向かう。私が息を深めに吸うと、冬の空気は肺をきりりと満たした。「ねぇ原田君、雪がやむまで、そこのミーティングスペースで休んでいかない? 法学のレポートを写させてもらったお礼。ジュースおごるから」
「ジュース? こっちだって過去問コピーさせてもらったのに」原田君はクリアファイルの中の言語学概論の束を見た。
「その分は、また別口でおごってもらうことにする。」もっと緊張するかと思ったけれど、出し始めてしまえば言葉は澱みなく流れ出る。余裕を装うことはできたと思う。
思わず逸らしそうになる目をじっと抑えて、原田君のビターチョコレート色の瞳に向かって微笑みかける。それがきちんと微笑みに見えたかどうかは自信がないけれど、原田君も笑ってくれたから大丈夫なのだと思うことにする。
「うん。今度良かったらおごるよ」
「また今度いつか、時間があったらね」
そのやわらかな言葉は、綿をたっぷりと詰めてふかふかに暖かいクッションみたいだ。どこまで行っても本質に辿り着けない代わりに、誰も傷付けない。
「じゃあおごってもらうよ」
原田君がそう言って、私たちは玄関わきに砂浜みたいに広がるミーティングスペースへ向かう。白いテーブルと椅子。そのわきに並んでいる自動販売機のほのかな光も、たくさん集まると明るい。今日みたいな空の下では特に。夜道を歩く私たちを一直線に照らす月の光みたい。まだ生まれたばかりの、これから大きくなっていく月。
原田君は、どれにしようかな、と、プラスチックのショウケースをとんとんとん、と叩く。細くて長い指だ。そのなめらかさは深海でひそやかに回転する波を思わせる。オーロラみたいに優しくゆらぐ波。
「川村さんは何を飲むの? もう決まった?」
原田君が笑って、そのやさしい吐息に吹かれたオーロラはひときわ大きく揺らぐ。ぱちぱちと赤いパルスを爆ぜさせながら、マイクロ波が私を内側から灼く。眩しい。
「どうしようかな……久しぶりにレモネードでも飲もうかな」
目の前にあったボタンへ手を伸ばしかける。ジュースのことなんて見えていなかったから。
「僕はこれにするよ」
原田君が指差した自動販売機に百円玉を入れようとして、その時に一歩分だけ私は原田君に近づく。密度を高めた波に吹き飛びそうになりながらその細い指先を見た。
「コーンポタージュ?」
「うん。すごく甘くて暖まるよ」
ごとんと音を立てる黄金色の缶は心臓の拍動のよう。取り出されるそれを眺める。
「コーンポタージュの缶、けっこう昔に飲んだけど、あんまりおいしかった記憶はないんだよね」
「昔から甘くて暖かいけど、最近のは昔よりも深みが増してる。おいしくなってるよ」
流されてしまう自分が悔しくて叩いた減らず口をふんわりと包み込んで。原田君は取り出した缶をぶんぶんと振り回すようにかき混ぜる。かしゃかしゃという小さな音が聞こえる。ポタージュの中をコーンが泳ぐ甘やかな音。
なんか騙されてる気がするけど、私もそれにしてみようかなぁ。そんな言い訳みたいな独り言でごまかして、私も原田君と同じコーンポタージュのボタンをぱちんと押す。
ごとんと音を立てた缶は、温かいというよりも熱い。持っているだけで火傷しそう。慌てて指をかけたプルタブがかちんと音を立てて開いた瞬間、張り詰めていた冬の空気はほころんで私の温度を高める。ふわりと音を立てて吹き始めるやわらかな突風。私の中に吹き込んできて、肺が固まってしまったみたいに息をつめた私の中の密度をいたずらに高くしていく。
黄金色のコーンポタージュと一緒に、世界が私の中へ流入する。私は世界へと溶け出していく。幾千の春が同時に芽吹いたようなエネルギー。
「……あたたかい」
私がようやく絞り出した声に、原田君は満足そうに頷く。
「そりゃそうだよ。暖かさと甘さだけを持つもの。それがコーンポタージュの定義だから」
さすが法学部、それっぽい言い方するなぁ。と笑いながら、安心した私は原田君に聞いてみる。ホットのキャラメルマキアートはコーンポタージュになるの? と。
それは違うよ、と原田君は言った。
「ホットのキャラメルマキアートにはカフェインも入ってる。だからコーンポタージュとは別のものだよ」
私には原田君の言っていることはよく分からなかったけれど、ただ、それでもそのコーンポタージュはキャラメルマキアートよりもずっと甘かった。
ガラス張りの玄関の向こう、雪はまだやむ気配を見せない。少しずつ強まっているようにさえ見える。両手の中にあるコーンポタージュの暖かさを抱きしめながら、私はうっすらと白く色づき始めた地面を眺めている。
「雪って、暖かいのよね」
子供の頃から、雪は暖かかった。灯油ストーブの匂い、テレビから流れる冬の歌、りんごがたっぷり入ったカレー。音も立てずにひそやかに降り積もっていく雪を窓越しに見て、じっとしていられなくて炬燵に潜り込んだ。息が詰まりそうに暖かい光。
そんな私のたどたどしい話を聞いて、原田君は優しく笑った。
「冬の雨は冷たいけれど、確かに雪になれば暖かいね」
自動販売機のコンプレッサーの音が止まる。最後の反響ひとつを残して、すべての音は積もっていく雪に吸い込まれていく。消えてしまった音は、今、地面に雪が降りるかしゃかしゃという音に埋まっていく。薄い透明な膜を通して、世界じゅうの感覚すべてがそれに収斂していた。
私たちのほかには何もないみたいに思えた。ぎゅっと力を込めて握っているコーンポタージュの缶、高まっていく温度、ゆっくりと密度を高めていく時間。
「こうやって雪を見ていると、世界って勝手に回ってるんだなって思う。たまたま僕たちはここにいるけど、そんなこと関係ないんだって」
原田君は金色の缶の上端を持って、そこを支点に缶をくるくると回す。ひときわ大きく深海のオーロラが揺らぐ。
ねぇ、と打ち明け話みたいに、原田君はひそやかに口を開いた。
「コーンポタージュのコーンを全部残さずに食べる方法、知ってる?」
言われて思い出した。何も考えずに飲んでいては、缶入りコーンポタージュを残さずすべて飲みきることはできない。コーンは、缶の底に張り付いて出てこなくなってしまうのだ。
「出てこなくなったら、缶を後ろからぽこぽこと叩くしかないんじゃないの?」
「やってみたら分かるけれど、缶に一度貼り付いちゃったらもう出てこないよ」
原田君は笑った。出てくるにしたって、そんなことをやりたいだなんて思わない。
「出てこなくなる前に、まだスープが残っている間に、こうやって飲むんだよ」
原田君の手の中の缶はゆっくりと傾いて、ゆらりゆらりと円を描いた。雪の中、わずかな光をきらりきらりと乱反射させながら。それはまるで、この世界の在り方を規定する砂時計が落としていく時間の粒のようだった。時間が変転して、世界はぱらぱらと産み落とされていく。
本当にそれでうまくいくのかな、という減らず口をまたひとつ叩いて、私も原田君に倣って金色の缶をくるくると回す。光がこぼれ落ちてくるのが美しくて、私は天井のライトにその光を透かす。ぱらぱらと降り積もる光、そしてその先の雪の向こうに空は見えなかった。ただ落ちてくる雪が羽根みたいだった。空気をいっぱいに孕んでひらひらと、こうやって見ると、雪は想像していたよりもずっと弱い。風がひと吹きすればどこまでも飛んで行ってしまいそうで、こんなものが地面に積もって世界を変えてしまうなんて信じ難かった。それでも現実に、雪は風景を白く塗り替え続けている。
ポタージュスープの中のコーンはくるくると遠心力に従いながら、引力を受けて落ちていく。コーンのひと粒ひと粒が描く螺旋が、今の私には見えている。泳いでいる。いくつもぶつかって絡み合いながら。
「雪、やまないね」
私が言うと、原田君は頷いた。
「うっすら地面が白くなったと思って見ていたら、いつの間にかアスファルトが全部見えなくなっちゃった」
世界が変わっていく姿が私には見えた。
コーンポタージュを飲み終えて、私は片目をつぶって中の様子を見る。
「確かに、こうやって飲むと一粒も残らないね」
「うん。缶に遠心力をかけ続ければ、絶対に残らない。こんなに甘くて暖かいのに、残すなんて勿体ないから」
大きなミトンをはめた女の子がふたり、窓の外を歩いていく。傘も差さずに、おそろいの赤い長靴を地面に突き立てながら。近くの小学生だろうか。くるくると二人、踊るように雪をつかもうとしている。くっきりと残っていく足跡。多分、あの二人は、ミトンとマフラーにくるまれてとても暖かい。
螺旋が回っているのが分かる。
雪原の足跡が消えていくまでの間、私は浜辺で金色の海の中を眺めているように思う。それは、どこまでも広がった果てしない海だ。その広さにくらくらする。でもまさに私のいるここが、無限を形づくっているのだと感じていた。
「なんだか、大事なことがひとつ分かった気がする」
私は深海に向かって小石を投げいれた。たゆたうオーロラがどう擾乱するのかが見たかった。そのあまりにも小さな石は頼りない音を立てて、笹船さえ揺れるか分からないくらいの波を打った。
原田君は立ち上がると、息をつめてオーロラを見る私に近づく。そしてそのまま、私の手の中の缶を鮮やかに抜き取った。缶はとても小さいから、その瞬間に熱を持った手と手がはっきりとぶつかる。
眩しい。
それは大して強い光じゃない。でも、確かにその一瞬、私はオーロラの鱗片にふれた。不意に湧き上がった光に目を細めた。
二人分の缶をまとめてゴミ箱に捨てて、原田君は言った。
「雪が降るとこんなに景色が変わっちゃうこと、忘れてた」
ここはどこなんだろう。暖かくて見慣れない場所。ちょっと目を離した隙に、私の目の前の世界はすっかり変わってしまった。さっきまで見えていたつつじの植え込みや、ベンチや、構内案内板や。そういうものはどこへ消えてしまったのだろう。
自動販売機のコンプレッサーが、再び動き出す。ぶおん、ぶおん、と、等間隔に打つ。それは私が知らないところでひとりでに動き出した歯車の音だ。私はその音を呆然と聞いている。原田君が触れた右手の甲だけが、とても熱い。
「なんか、ずっとこうだったみたいに思う。」
私はそんなふうに、そっと息をつく。今となっては、雪が降り積もったこの景色こそ、世界の正しい姿みたいに見える。もう、ベンチの色も、場所も、正確には思い出せない。
「さっきの話だけど」
え、いつの話だっけ。そう聞き返す私に、
「言語学概論のコピーのお礼」
原田君は答える。
「うん」
「今から返そうかな。どうせ、こんな天気じゃ、しばらく電車は動けないよ」
「――うん」
私は頷く。熱くなっている顔を見られるのが嫌で。
多分この雪はもうしばらく続くのだ、そう思った。雪はいよいよ強くなって、景色はその間にも変わり続けていた。
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