NN.4-2からの続き)


 玄関は暗かったが、カズヒサが「多分、開いてるのはここだ」と言いながらドアを押すと、音もなく開いた。
 下駄箱はひんやりとしていた。まだ暗闇には目が慣れていないけれど、毎日通っている玄関だ。自分の下駄箱の位置くらいは大体分かる。上履きくらいは履いていこうかな、と足を踏み出すと、何かとんでもなく硬くて大きいものに肩からぶつかった。何だ?こんなところに新しく下駄箱が追加されたのか? しかし下駄箱にしては大きすぎるし硬すぎる。まるで眼前にそびえる活火山のような。不思議に思い目を凝らすと、
「しまった! 谷山だ!」カズヒサが後方で指さして叫んだ。山の上のほうで振り向いた目がぎらりと光った。
 その噴火しマグマを流し続ける火山みたいな影はこちらに気付くと、「ぬわーんだ貴様らはーぁぁ!」と両手を振りまわして暴れる。
 捕まったら食われる。そう思った。これは鬼でも悪魔でもない。怒り狂った野生の獣だ。その毛深い腕の一振り一振りが二人の血を肉を、命を欲しているのだ。そうか。こんな巨大で獰猛な獣との戦い、これこそが誇り高き兵士の戦いなのか。
 谷山の腕が、拳が巻き起こし続ける風圧に吹き飛ばされそうになりながらもタカシは耐える。そう。この先に、望んだ未来が待っているのだ。
「タカシぃぃ俺はここで食い止める先に行けえぇぇぇ」突然カズヒサの悲痛な叫び声が聞こえて振り向くと、軍艦の主砲のように太く巨大な二本の腕がカズヒサの襟元と頭に絡みついていた。そのまま闇の中へ引きずり込まれていくように見えた。
 タカシは頷いて走りだした。ようにカズヒサには見えた。タカシ自身は頷いてるのか震えているのか腰が抜けているのか分からなかった。とにかく足を前へ前へと運んだ。
 谷山の咆哮が背中に向けて襲いかかってきた。もはやそれは意味のある言葉には聞こえなかった。ただ魂を直接揺さぶる音圧だった。それは「待てやコラ待たないと食い殺す」だったのかもしれないし、「さぁ一緒に地獄のダンスを踊ろうぜカズヒサちゃん」だったのかもしれない。いずれにしても、下駄箱を突っ切って左手に折れ、保健室と視聴覚室、理科室を駆け抜けて後ろ手に放送室のドアを閉め、鍵をかけるまでに谷山は追いついてはこなかった。
 タカシはふぅと息を吐いた。谷山が本気を出せば放送室のドアを蹴破るくらい造作もないだろうが、まずは一安心だ。
 しかし電気がついてなくて暗い。まずは電気をつけないと。電気のスイッチはどこにあるんだ? いや、そもそもカーテンが閉まってない。窓も閉まってないから風吹いてくるし。なんで外はあんなに電灯もキャンプファイアーも付き放題ついているのにこんなに暗いんだ?
 そしてタカシが窓のほうをよく見ると、何か大きいものがゆらりと動いた。谷山のような威圧的な大きさじゃなくて、もっとこう、冷え冷えとした何か。死神の鎌がゆらりと白い光を放つ。
 何かいる?
 まだ肝試しは始まってないじゃないかいやそもそもなんで放送室に幽霊がいるんだよ出るなら理科室とか保健室にしてくれよ夜はまだ早いよお前らの時間じゃないよ、混乱するタカシはその影が横にふらりと動くのを見た。遮られていたキャンプファイアーの光が部屋に差しこむ。そして、
「なんでアンタがここにいるのよ」
 頭上から聞こえてくるが、それは地の底から響いてくるような絶望的に冷え冷えとした声だった。そこで気付いた。そこにいたのはイガワだった。ある意味幽霊よりも怖かった。
「や、っていうかあれ、なんでイガワがここにいるんだよ」
 確かに考えてみればおかしかった。なぜタカシの相手であったイガワはタカシを探して引っ張っていかなかったのか。なぜ、相手がいないと一番わめいて叫んでぶち壊しそうなイガワが何も言わず、フォークダンスはつつがなく始まったのか。
「アンタには分かんないと思うけど、私にはやることがあんの」イガワはぶら下げた右手に携帯電話を持っていた。それをずっと眺めている。
 なんだよ、いつもあれやれこれやれうるさいのに自分はサボりなのか。ここはもしかしたら正義の味方っぽく言ってみたらイガワに勝てるかもしれない。タカシはそう思った。
「いつまで経ってもフォークの相手が現れなかったから、おまえを連れ戻しに来たんだ、イガワよ」
 びしっ、という効果音が付いてほしいくらいに決まった。とタカシは思う。人差し指はイガワのでっかい鼻の先に。
「はぁ?アンタが?本気で言ってんの?」
 イガワは心底呆れた、というような声を出す。
「当たり前だろ、ちゃんとやれって言ったのはお前だ」
 イガワは驚いたような顔をして、そして、はぁ、とため息をつく。
「分かってるわよ、でも、これは仕方ないの。さっきも言ったけど、私には――」
 イガワが何か言いかけたところで、突然携帯電話の着信音が鳴る。遊戯王の熱い主題歌だ。どうやらマナーモードにするのを忘れていたらしい。
 来た!
 もはやイガワなんかに構っている暇はない。ジロリと睨みつけるイガワを見ないふりして電話に出る。「…もしもし」
「どうもこんにちはYAZAWAだよー。ラジオ聞いてたかい?今君の声が全国に届いてるんだよ。まさか裏番組の野球中継なんて聞いてなかっただろうね」
「ごめんなさい、ちょっと訳あって聞ける状況にいませんでした」
「何どうしたの、まさかテレビ見てたなんて言わないよね地デジ世代。YAZAWAはアナログであと十年は持たせようとしてたけど、オリンピック見たくて買っちゃったよ54インチのプラズマ」
「いや、テレビもここにはないんです」
「そうか、なら仕方ないな許そうか。ところで君はカオスソルジャー君でいいんだっけ」
「はい、カオスソルジャーです」
 じっと成り行きを見つめていたイガワは、カオスソルジャーの名前を聞くとあからさまにため息をついた。完全に興味を失ったように携帯を眺めている。でももうそんなことはどうでもいいのだ。
「そうか良かった。ここまで喋って間違い電話だったらどうしようかと思ってた。カオスソルジャー君はさっきまで何をしていたんだい?」
 なんと答えるべきか少し悩んだ。やはりキャンプをサボっていることは全国放送に乗せてはいけない。
「……カレー食べてました」
「カレーか!いいね。僕も好きだよ。インドカレー、タイカレー、日本のカレーと欧風カレー、何が来てもご飯3杯は食べちゃうよ。――よし、それじゃ、少し待っててもらっていいかな、君の対戦相手に電話をつなぐから」
「はい」
 相手はどんな人なんだろう。全国にこの放送が流れている以上、負けたらカッコ悪すぎる。勝たなければいけない。でも、全国にこれが流れてて、また別の誰かが聞いていて、遠くの誰かと、一生会うこともないほど離れた相手と一本の線でつながっているなんてすごいことだ。
 そんなタカシの感慨を邪魔するように、イガワがどこからか掛かってきた電話に出る。イガワはマナーモードにしていたらしい。電話を待っていたのか。でもこんなところで隠れるようにして出なくても、後からかけなおせばいいじゃないか、と思う。
「こんにちはYAZAWAだよー。お名前教えてくれないか?」電話の向こうのYAZAWAも対戦相手と繋がったらしく、しゃべり始める。携帯の向こうで会話が聞こえる。
『はい、イガワ・マリです』
 携帯の向こうの対戦相手の声と、目の前の電話の声が完全に重なった。
「お前かよ!」
『えっ』今度は二つのイガワの声と、さらにYAZAWAの声が重なった。
「どうしたカオスソルジャー君。なんか決定的にイヤなことでもあったのかい」
「いやごめんなさい、何でもないです」困惑気味のYAZAWAに謝るが、イガワのこちらを睨みつける視線は、一瞬驚きに変わってから、さらに強い何百もの針みたいな視線に変わった。
「ごめんねイガワマリさん、カオスソルジャー君はなんか悩み多き年頃みたいで」
「そんなもんだと思いますよ。私の近くにいる男子なんてもう本当にひどくて。どうせたいしたこと考えてないのに声ばっかり大きくて」イガワは派手にため息をついた。
「資料によるとカオスソルジャー君と同い年みたいだけど……本当に君らくらいの時って女子のほうがずーっと大人だよね」
「そうですよね、本当にいつも迷惑で」
「ははは、申し訳ない。ちなみにイガワマリさんはさっきまで何をしていたの?」
「キャンプファイアー見てました。もう本当にきれいで感動でした」イガワは窓の外にちらりと目をやる。
「キャンプか、いいね。もしかしてカレー食べた?」
「はい。とってもおいしかった」
「いいね。対戦相手のカオスソルジャー君もカレー食べたみたいで。今日は僕も終わったらココイチかな。パリパリチキンこそが至高のトッピングさ」
 ギロリとこちらを睨み続けるイガワにも気付かず、YAZAWAはしゃべり続ける。
「さて、じゃあそろそろ本題に行こうかな。タームキーパーさんと構成作家さんがさっきから腕をぐるぐるぐるぐる回してる。ムダ話ばかりでタイムスケジュールがどんどん遅れてるんだろうね。クーラー効いててこんなに涼しいのに二人とも汗がダラダラさ。なんかかわいそうになってきたからそろそろやろうぜ二人とも。準備はいいかい?」
『はい』
 お互いがお互いを睨み続けている。
「じゃあ先攻を決めようか。じゃんけんだ。いいかい、最初はグーだよ。勝ったほうが先攻になるから頑張ってね。オーケー?いくよ、せーの、最初はグー、じゃんけん……」
『ほいっ』
 タカシはグーでイガワはパーだった。
「やった、勝った」イガワは手を叩いて喜んでいる。右手を胸の前でグッと、ガッツポーズまで決めた。どんだけ負けたくないんだよ。しかし場を取り仕切るべきYAZAWAは何故か困惑していた。
「えーと、出した手を口に出してもらわないと僕には何が起こったか分からないんだけど……イガワさんが勝ったの? じゃあカオスソルジャー君の負けでいいのかな?」
「はい、負けました」男は潔くなくてはならない。
「そうか、なんだか僕だけが取り残されてしまうような感覚。僕には何も見えない何も聞かせてくれない。僕の身体が昔より大人になったからなのか? 二人とも心が通じ合いすぎだよ。これもカレーの力なのかな。僕ももう一刻も早くココイチに駆け込むべきなのか? 行ってきていいか? しかしどうであれ勝負はついたみたいだ。もしかしてみんなには見えているのか? まぁ仕方ない。イガワさん準備はいいかい?」
「はい、いいです」イガワが傍らのコンポの再生ボタンを押す。程なくしてギターのようなベースのような単音が聞こえてくる。
「さぁ、イガワさんの歌う曲はお馴染みStand by meだ。いい曲だねぇYAZAWAもなんだか泣いちゃいそうだよ……さあ、じゃあ行っちゃって」
When The night……has come……
 何語だよ!と思いながら聞き始めたが、次の瞬間、タカシはその場から動くことができなくなった。まるで雷に打たれたみたいだった。それは世界が転換したみたいな衝撃だった。歌が始まるまでは、隙あらば脛に蹴りでもかましてやろうと思っていたのだが、そんなことは歌が始まった後ではできるはずもなかった。もちろん歌それ自身もだが、歌っているイガワのその姿もタカシに刃向かう気を失わせるに十分なほどの――今までに見たこともない顔だった。
 イガワ、こいつ、今まで気付かなかったけれど…………
Oh darling, darling, stand……
 歌が佳境に入ると同時に部屋の気圧が上がった。鼓動が速くなるのが分かる。
 気付かなかったけれど…………口が異常にでかい。声も異常にでかい。何か機嫌を損ねたらそのまま丸呑みにされそうなでかさ。怖い。そしてそんな表情で歌いあげられるソウルフルなフォルティッシモは、もはや何かの儀式の始まりだった。遠くに見えるキャンプファイアーとそれを囲んで踊る人々の群れ。タカシは何故か、自分がその真ん中に張り付けられている様子を想像した。
 生贄だ。
 張り付けられた十字架に火がだんだんと回ってきている。ロープがぱちぱちと音を立てている。
 タカシが震えあがっている間に歌は終わっていた。イガワはディスクのイジェクトボタンを押す。
「すごい声量だねイガワさんすごい。ヘッドホンのボリュームを四分の一にしても普通の音量で聞こえたよすごい。演劇とか合唱とか何かやってるの?」
「いえ、ただのしがない学級委員です」
 ほめてるんだか何だかわからないYAZAWAの言葉に、イガワは顔を真っ赤にして返答する。
「これは強敵だよカオスソルジャー君。勝てそうかい?」
「負ける気がしません。」未だにコンポの前に陣取っているイガワにそこをどいてくれとジェスチャーをする。一瞬イガワはむっとした表情を見せるが、ため息をついた後にゆっくりとどいてくれる。
「いいね。やっぱり男はそうでなくっちゃ。とにかく相手がどんなでも、当たって砕けろだ」YAZAWAの声を聞き流しながら、CDをコンポに入れる。相手がこんなんだったら、自分だけ砕けて終わりだろうな。質量と体積が違いすぎる。
「じゃあ準備はいいかい?」
「はい、いいです」再生ボタンを押す。
 来た来た来た。盛り上がるこのイントロだよやっぱり。あんなギターだけの悪の儀式みたいな曲とは違うんだ。
「さぁ、カオスソルジャー君の歌う曲はなんとThrillerだ。もちろんマイケルジャクソンのあれ。YAZAWAもよくカラオケに行くけど、これを歌ってる人見たことないぞ。さぁやってくれるのか。頑張れカオスソルジャー君」
 歌い始めが肝心だ行くぜ。タカシは大きく息を吸い込んだ。夏の風で体中を満たすように。「いつくろうずざみーぁぅ、さんてんいんこざふぁってんいんこざとーふぁぅ」
 行けるこれは行ける。これなら勝てる。あまりにも調子がよすぎる。今ならばムーンウォークでネバーランドに辿り着ける。……そういえばイガワのせいでごたごたしていてひとつ忘れてた。校内放送のマイクをオンにしなければ。
 左手にあるマイクのスイッチをONに変えようと手を伸ばす。しかし、スイッチまであと数センチのところで手を払われてしまう。誰だ?と思ったがこんな邪魔をするのはイガワしかいない。イガワを睨みつけようとすると、イガワがそれ以上の剣幕でこちらを睨んでいる。声には出さないで口だけでしゃべっている。(何やってんのバカ)と。
 多分、タカシの声だけが校内に響き渡ることに嫉妬しているのだ。自分の歌も流して目立ちたかったんだ。イガワはそういう奴なんだ。
 しかし残念ながら、イガワがどう思おうとこれは崇高な作戦なのだ。しかも仲間の犠牲の上に成立している。カズヒサはダークサイドに堕ちてしまった。ある意味ではユキオもか。それに報いるためにも、なんとかして成功させなければいけない。あんなオクラホマミキサーは終わったのだ。この歌声を戸田さんに届かせなければいけない。
 そんな思いを載せながら、歌は佳境へと入っていく。
「げっさんべスリラーあぁぁ、スリラーぁなぁいっ!」あと少し。あと少しで届く。「ふぁいてぃんごーやないっ、でぃさぁ、げなっっ、うぇなあぁっっとぅなーぁぁぁいっ!!!…………アオ!」
 サビを堂々と歌いあげた瞬間に脛に激痛が走って思わず叫んだ。視界の端に、ローキックでターゲットを打ち抜いたイガワのスカートが思いっきりはためくのが見えた。
 あと少しの所でスイッチには手が届かなかった。
 まだまだ歌い続けるつもりだったが、完全にぶち切れたイガワの手によってスリラーは強制終了された。ちょ、待って、と口を開きかけたところに、YAZAWAの豪快な笑い声が響いた。
「はっはっは、すごいよカオスソルジャー君すごかった。特に最後のシャウトは本家マイケルも真っ青の豪快なシャウトだったよ。真っ青?真っ青……まぁいいや。とにかく良かった。シャウトが良かったすごかった」
 もはや脛が痛くてそれどころではない。とにかく勝負。勝負はどっちが勝ったんだ。
「この勝負は、さぁ、どっちを勝ちにしようか。どっちが勝ちでも負けでもいい、惜しくないいい勝負をしていた。けれどもやっぱり勝者は……イガワさんかな。僕にヘッドホンの音量を下げさせた初めてのリスナーだよおめでとう」
 マジか。思わずへたりこんでしまう。「カオスソルジャー君はシャウトをもっともっと磨いてきてくれ。次の大会でも待ってるよ。じゃあ残念だけどカオスソルジャー君は、さよならだ」
 電話がぷつりと切れる。後には静寂だけが残った。かすかに聞こえるオクラホマミキサーは、なにかもう別の次元の出来事のようだった。時折聞こえてくるイガワの電話の受け答えの声だけが現実味を帯びた世界だった。
 へたり込んだまま、イガワの姿を見上げる。遠くで弾け飛ぶキャンプファイアーに照らされて、イガワの頬は紅潮していた。どこか遠くの世界からかすかに鳴り響いているオクラホマミキサー。
 あぁ。と、タカシは気付いた。気付いてしまった。いつもは気にしていなかったイガワが、こうやって見ると、こんな二人だけで隔絶された世界でじっと見ていると……本当に――本当に、でかかった。あんなののローキックをまともに食らって、骨が折れていないはずがない。今更になって足が痛みだす。
 外の世界ではフォークダンスがまだ終わらない。こんな遠くからでは戸田さんの姿も見えない。
 いったい、この二人だけの隔絶された世界から、どんな地獄へと連れて行かれるのだろう。イガワの顔色をそっと覗き見ると、冷ややかな視線と目が合う。
 儀式はまだ終わっていないのかもしれない。タカシは張り付けられて、火を囲んだ儀式の盛り上がりはゆっくりとクレッシェンドしていく。