※「VIPでテキストサイト」90分テキスト一本勝負:「大掃除」
今回の記事作成に要した時間:87分
虹はいつだってオレンジの香りがした。
夏休み前最後の一日は大掃除をやって終わり。あまりにも呆気なく終わってしまうのだ。
これで高校に入って7回目の大掃除、私とキョウカちゃんはいつも二人で玄関掃除をやることにしている。
水洗いする部分が多いから不人気で、いつも希望者が居なくて最後まで余っている。だから二人で一緒にできる。
もちろんそれだけではない。
梅雨明けの大きな太陽の下、きれいな虹が見られるからなのだ。
私はホースをいっぱいに伸ばして、玄関わきの植え込みに向かって水を飛ばす。太陽光がきらきらと反射する美しいアーチだ。私が作る虹は、水の軌跡ほどにはきれいな曲線を描いてくれない。いつも小さな欠片の、吹けばすぐに消えそうな弱々しい光だ。
それに引き替え、キョウカちゃんの作る虹はいつも強くて明るい。
同じ材料を使って、どうしてこうまで差ができるのかがずっと不思議だった。
キョウカちゃんの手もとをじっと見つめて、その真似をする。もっと高く飛ばせば良いのだろうか。けれど、しぶきが自分の手もとにかかっただけで、全然虹は大きくなってくれない。
そんな私をちらりと見て、キョウカちゃんは声を上げて笑う。
「それじゃダメだよ。ねぇ、きっとナナコは分かってないと思うんだよ」
「分かってない? 何が」半ばイラっとして私は言う。水しぶきまでかかって、それでもがんばって作ろうとしているのに。
「虹を作るのに一番大事なものって何だと思う?」
キョウカちゃんはホースから出る水流の向こう、空のずっと向こうを見ている。
「そんなの決まってるじゃない」私は断言する。「雨だよ」
虹には雨が必要だ。こんなホースの水で作るような偽物の虹なんてたかが知れている。キョウカちゃんの作る虹でさえ、台風の後にかかる巨大なアーチには比べるべくもない。
「違うよ。」キョウカちゃんは水の行方を追ったまま、顔色一つ、声色一つ変えずに言う。「虹を作るのに一番必要なのは太陽の光」
「そんな、だって雨が降らなきゃ虹なんて」
「ねぇ、ナナコ、夏休みって楽しみ?」
キョウカちゃんは私の抗議を遮って問う。それがあまりにも唐突だったので、訳も分からず、反論する気を失ってしまう。
「え、いや、楽しみは楽しみだよ、旅行も行けるし」
ふと逸らした私の視線が、下駄箱の一角の明るいオレンジ色の靴を捉える。それはいつも通り汚い。月曜日にはたまにきれいになっていたりするけれど、結局数日も経たずに土だらけに汚れてしまう。
校舎内に充満していたオレンジの香りが、突然私に向かって吹き付けてきたように感じる。洗剤として使っているオレンジクリーナーの香りだ。どんどん上昇していく気温の下で、むせ返るように濃密なオレンジ。
「ふーん、それならいいけど」
キョウカちゃんはやはり顔色一つ変えない。
心の底に引っかかった骨みたいに疼いて消えてくれないことがある。この炭酸みたいにしゅわしゅわと立ち上っては消えるオレンジの色をした靴。毎日のように眺めては、どんな一日を送ったんだろうって想像したり。
夏休みには空になってしまう下駄箱。例えば、北の空を見ればいつでも見えるランドマークタワー。それがある日突然消えたら、多分同じことを思うだろう。
「ねぇ、キョウカちゃん」声を出してはみたけれど、何を話せばいいのか分からない。だって、この靴のことも、その持ち主のことも、私のこの身体の中から一歩だって外に出たことはないのだ。
「虹を作るには、この太陽みたいなとても強いエネルギーが必要なの。蛍光灯に水かけたって虹なんかできない」キョウカちゃんはまだ空に向かって水を架け続けている。「あなたは、太陽の光をもっと見たほうがいい。そうすればきれいな虹ができるから」
私は太陽を見上げて、眩しくて手を翳す。予想以上に太陽は眩しい。
そして私は太陽を目がけて水を架ける。
「何も言わなくても分かるよ、ずっとあなたを見てれば分かる」
その声がよく聞こえなくてキョウカちゃんのほうを振り向く。
水を含み過ぎた大気の中、キョウカちゃんの手もとの虹は消えかけていた。
今回の記事作成に要した時間:87分
虹はいつだってオレンジの香りがした。
夏休み前最後の一日は大掃除をやって終わり。あまりにも呆気なく終わってしまうのだ。
これで高校に入って7回目の大掃除、私とキョウカちゃんはいつも二人で玄関掃除をやることにしている。
水洗いする部分が多いから不人気で、いつも希望者が居なくて最後まで余っている。だから二人で一緒にできる。
もちろんそれだけではない。
梅雨明けの大きな太陽の下、きれいな虹が見られるからなのだ。
私はホースをいっぱいに伸ばして、玄関わきの植え込みに向かって水を飛ばす。太陽光がきらきらと反射する美しいアーチだ。私が作る虹は、水の軌跡ほどにはきれいな曲線を描いてくれない。いつも小さな欠片の、吹けばすぐに消えそうな弱々しい光だ。
それに引き替え、キョウカちゃんの作る虹はいつも強くて明るい。
同じ材料を使って、どうしてこうまで差ができるのかがずっと不思議だった。
キョウカちゃんの手もとをじっと見つめて、その真似をする。もっと高く飛ばせば良いのだろうか。けれど、しぶきが自分の手もとにかかっただけで、全然虹は大きくなってくれない。
そんな私をちらりと見て、キョウカちゃんは声を上げて笑う。
「それじゃダメだよ。ねぇ、きっとナナコは分かってないと思うんだよ」
「分かってない? 何が」半ばイラっとして私は言う。水しぶきまでかかって、それでもがんばって作ろうとしているのに。
「虹を作るのに一番大事なものって何だと思う?」
キョウカちゃんはホースから出る水流の向こう、空のずっと向こうを見ている。
「そんなの決まってるじゃない」私は断言する。「雨だよ」
虹には雨が必要だ。こんなホースの水で作るような偽物の虹なんてたかが知れている。キョウカちゃんの作る虹でさえ、台風の後にかかる巨大なアーチには比べるべくもない。
「違うよ。」キョウカちゃんは水の行方を追ったまま、顔色一つ、声色一つ変えずに言う。「虹を作るのに一番必要なのは太陽の光」
「そんな、だって雨が降らなきゃ虹なんて」
「ねぇ、ナナコ、夏休みって楽しみ?」
キョウカちゃんは私の抗議を遮って問う。それがあまりにも唐突だったので、訳も分からず、反論する気を失ってしまう。
「え、いや、楽しみは楽しみだよ、旅行も行けるし」
ふと逸らした私の視線が、下駄箱の一角の明るいオレンジ色の靴を捉える。それはいつも通り汚い。月曜日にはたまにきれいになっていたりするけれど、結局数日も経たずに土だらけに汚れてしまう。
校舎内に充満していたオレンジの香りが、突然私に向かって吹き付けてきたように感じる。洗剤として使っているオレンジクリーナーの香りだ。どんどん上昇していく気温の下で、むせ返るように濃密なオレンジ。
「ふーん、それならいいけど」
キョウカちゃんはやはり顔色一つ変えない。
心の底に引っかかった骨みたいに疼いて消えてくれないことがある。この炭酸みたいにしゅわしゅわと立ち上っては消えるオレンジの色をした靴。毎日のように眺めては、どんな一日を送ったんだろうって想像したり。
夏休みには空になってしまう下駄箱。例えば、北の空を見ればいつでも見えるランドマークタワー。それがある日突然消えたら、多分同じことを思うだろう。
「ねぇ、キョウカちゃん」声を出してはみたけれど、何を話せばいいのか分からない。だって、この靴のことも、その持ち主のことも、私のこの身体の中から一歩だって外に出たことはないのだ。
「虹を作るには、この太陽みたいなとても強いエネルギーが必要なの。蛍光灯に水かけたって虹なんかできない」キョウカちゃんはまだ空に向かって水を架け続けている。「あなたは、太陽の光をもっと見たほうがいい。そうすればきれいな虹ができるから」
私は太陽を見上げて、眩しくて手を翳す。予想以上に太陽は眩しい。
そして私は太陽を目がけて水を架ける。
「何も言わなくても分かるよ、ずっとあなたを見てれば分かる」
その声がよく聞こえなくてキョウカちゃんのほうを振り向く。
水を含み過ぎた大気の中、キョウカちゃんの手もとの虹は消えかけていた。
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